毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

結局、人間らしく生きないと、社会って回っていかないんじゃないだろうか。

最近、みうらじゅんさんの「ない仕事を作る」とか、ハ・ワンさんの「あやうく一生懸命生きるところだった」とかのほんを読んでいます。「頑張らない生き方」というのが、やはり世間でも注目されているんだなと感じます。

 

自分自身も、高校受験から始まる受験戦争や、大学、大学院での研究に絡んだ競争、会社でも結局今思えば評価を得ようとしていたかような仕事の毎日、色んな事に一生懸命だった、というか、必死だったという感じがします。そして、それらが効率的だったかというと、いつだって効率的ではなかった。いわゆる、生存するための過剰適応の日々で、見た目はあんまり頑張ってなかったけど、自分の中では必死で頑張ってきた、という感じがします。その意味で、ずっと頑張ってきた、そんな感じです。

 

ハ・ワンさんの本は、韓国の本でありながら、日本も韓国も一緒なんだと感じました。そして、という事は、世界の人もきっとおんなじなんだと思います。

 

日本語の「頑張る」って、日本人にとって凄く使いやすく分かりやすい言葉でありながら、それを英訳すると、どういう表現が適切なのかよくわからない、でも、「頑張る」という言葉は日本人にとっては分かりやすい、という気がします。

 

人間は大人になるにつれて、社会に入って何かをしていかないといけない、何者かにならないといけない、社会の中で生きていかないといけない、という社会というシステムが当然の物としてそこにあって、そこにいかに入っていくか、その為に頑張らないといけないという感じに、無意識になっていたように思います。そして、よく分からない競争をみんなと知らず知らずやっていた、そして、やってきたという感じです。だから、「頑張る」事は当たり前。

 

そして、もっと良い社会を作るにはどうしたらいいか、みたいなことを漠然と考えながら、無意識に、社会の為に生きる事を是として何かを必死に考え、頑張ってきたように思います。

 

歴史を振り返っても、共産主義か資本主義かの問題だって、結局人間は資本主義を選んだわけで、それはそちらの方がマシだったって事で、共産主義社会というパッケージは理想的なシステムに思えただろうけど、人間はそんなにきれいごとで済む生き物ではなかったし、「欲望機械」としての人間が、精神を分裂しながら、結局資本主義経済しかなかったっていう歴史になったわけで、それって、要は、人は「好き勝手生きたい」っていう事だと思うんです。「好き勝手生きる」っていうのは、凄く人間らしいって思います。

 

人間らしく、人間として生きていくって事が結局大事で、社会は、人間らしく生きる人間が寄り集まって出来る成り行きの社会でしかないのではないかって思ったりします。SDGsも、環境や資源の問題も、資本主義社会もビジネスの効率も、それはそうなんだとは思うけど、人間らしくないものに基づいた社会システムでは、人々は結局擦れきれるように思います。

 

ビジネスの生産性や効率性というのは、その意味で高生産性、高効率なんだとは思いますが、人間らしい生産性、効率性という意味では、物凄く低いように感じます。人間はもっと多様だし、もっと緻密だし、その意味で、人間らしい効率性を考える事も大事かなと思います。

 

そういうわけで、頑張らない生き方を自分自身の人生と重ねながら、人間や社会について考えてみました。結局、人間なんだから、人間らしく生きないと、どんなきれいごとを言っても、どんな大きな問題を掲げても、人間の社会って回っていかないんじゃないだろうか。という風に思います。