最近、コロナ禍もあって、知り合いや多くの人たちと何気に会うみたいな事が減ってきて、寂しいと感じる事が多くなってきたと思います。会社でも、在宅勤務が増えて、会社の人たちとあんまり合わず、多くの時間を自宅で過ごすという事も増えてきたように思います。家に家族がいたりすればまだよいのでしょうが、独り身だったりすると、けっこう寂しく感じると思います。寂しいという感情は、人間にとって自然の性質であるとは言え、けっこうつらいものだと思います。
それでは、何故人は寂しいと感じるのでしょうか。それを、「注意」という観点から考えてみたいと思います。そして、囚われという問題と、今ここを生きるという事についてもお話ししたいと思います。
まず、注意です。人は、何か気になる事があると、それに注意が向きます。また、意識的に注意を向ける事もあります。注意は、意識に似ていますが、自分の意識が、注意を引っ張られたり向けたりしている事に気付けたりしますから、少し違うのかもしれません。主に、ここでは、2種類の注意、何かに注意が引っ張られる事と、何かに注意を向ける事についてお話します。
何か嫌な事があったり、イライラしたり、寂しいと感じたりすると、その自分の中のネガティブな感情に注意が引っ張られます。そして、そのネガティブな感情に囚われてしまうと、ずっと寂しさやイライラが継続して、ネガティブな感情が増幅していきます。どんどん精神的につらくなっていきます。だから、対処としては、マインドフルネス瞑想のように、心を落ち着かせて、囚われている自分を客観的に観察して気付くという事が大事になります。囚われている事に気付けると、そのネガティブな感情を手放しやすくなります。仏教ではこういう考え方をします。自分もそう思います。
寂しいから、他人と話をして、寂しさへの注意を自分の中から他人との話に移して紛らわすと、寂しいという囚われから逃れる事が出来ます。他人に注意を引っ張ってもらうわけです。でも、それだけだと、その場しのぎになるだけで、また一人になると寂しさが押し寄せてきて、注意がそれに引っ張られて、ネガティブな感情に囚われてしまう事になります。
そこで、もう1つ、注意を向ける、の話です。無意識に注意が何かに引っ張られるではなくて、意識的に何かに注意を向けるという事です。自分の興味のある事、関心のある事に注意を向ける、また、周囲の事や人たちに対しても、注意を向けるという事です。上のような囚われとは違います。注意を向けると、その事、その対象に、強くコミットする事になります。強くコミットしていると、寂しさなどのネガティブな感情に注意が引っ張られません。
他人と話をするという事に関しても、ただ話を相手に主導してもらって聞いてもらうのではなく、自ら他人の話す内容に関心を持って、その内容にコミットする事が大事です。その人自身がどう思っているのか、何故そう言うのか、色々とその人の事について思いめぐらせて、その人自身にもコミットする、これも大事です。
実は、人というのは、他人に関心があれば話しているうちに自然とコミットするものですが、これが案外出来ないという事があると思います。あまりの寂しさから、また、あまりの寄る辺ない感じから、自分の事に強く囚われてしまって、他人に関心を持つ事ができない。いくら他人と話をしても、話を相手にしてもらうだけで、自ら会話やその相手にコミットできない。あると思います。
そういう仕組みはありますが、それでも、他人や周囲の事、世の中の事に、注意を向けて、コミットしていけば、ネガティブな感情からの囚われから逃れる事が出来ます。寂しいから誰かと話をしたい、話を聞いてもらいたい、というのは、経験的に、人と話をしている時、寂しさの囚われから逃れられることを知っているからです。だから、その注意の仕組みを、積極的に、他人に自ら向けていく、他人に関与していく事に変えていくという事が大事だと思います。これが実践できてくると、他人に対してもコミット出来て、より質の高い会話になってきますし、人だけでなく、世の中の事にもコミットできるようになるし、コミットしたい関心事が生まれてきます。
人によっては独りでも平気な人はいます。自分でコミットする力を持っているので、他人に話してもらわなくても、大丈夫なのです。ネガティブな感情に引っ張られて囚われる事の重大な問題を知っているのです。むしろ、他人が、寂しさの囚われから逃れようと自分に話しかけてくる厄介さを知っているので、むしろ独りの方が心地良いという人すらいます。かなりの違いです。
注意を向ける、他人にコミットする、何かにコミットする。それは、今この瞬間、目の前にある対象に、しっかりコミットする、フォーカスするという事です。今ここを生きるという事です。今ここを生きるという事は、今この瞬間の対象にフォーカスする事を持続する事です。注意が今この瞬間に向けられ続けていますから、注意が何かに引っ張られて、囚われる瞬間がありません。その意味では、注意を向ける、コミットするとは、生きている、という事です。
コロナ禍も長くなって、みんな知り合いや他の人たちと会ったり話したりする機会が減ってきています。そして、独り寂しさを募らせていると思います。「注意」は大事です。ただ、注意の向くままに寂しさに引っ張られて囚われるのではなく、注意を意識的に向けて、コミットしていく、そして、他人を寂しさを解消する対象にするのではなく、他人に自ら積極的に関与していく、これも大事です。そうやって、色んな事にコミットしていけば、それがそのまま、「今ここを生きる」につながって、生きた心地がしてくると思います。