毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

美しいかどうかで判断する。決める時・自分らしさ・今を生きる

分にとって美しいかどうかが、生きていく上でとても重要で、生きていくという事に直結しているのではないか、と思うわけですが、この事について何故そうなのかよく分からないところもあります。ただ、直感的に、美しいかどうかは、自分の中で最も価値のある判断基準になっているようにも感じます。そこで、いくつかの点について美しいかどうかについて考えてみたいと思います。

 

今回は、何かを決める時、自分らしさが分からない時、今を生きているどうか、について、美しいかどうかという観点で考えてみたいと思います。

 

何かを決める時に、人はその事をどのように決めるのが良いのでしょうか。それが、自分にとって美しいかどうかが、それを決める判断基準にならないでしょうか。ある人が困っていてその人に話しかけるべきかどうか決めるという状況があったとして、でも、話しかけない方が良いのでないかという事も気になって、話しかけるべきかかけないべきか分からない、そういう状況でどうするか考える時、その人に対する自分の行為が美しいかどうかで、話しかけるか、話しかけないでおくか、決める事が出来ないでしょうか。特殊な設定なので変な話の例に聞こえますが、判断が非常に難しいという設定です。その微妙な決断をするとき、自分の行為が美しいかどうか、相手に対する思いが美しいかどうかで、それがより良い判断につながるような気がします。自分にとっての判断が美しいどうかを追求していくと、自分がどういう事を判断基準にしているのか、自分でも気付かない自分が発見できるような気がします。

 

では、自分らしさが分からない時はどうでしょうか。あるシチュエーションで、自分がどのように振る舞えばよいか分からない時、その振る舞い方で良いのかどうかわからない時、それが美しいのかどうかで分かるような気がします。自分のその態度は美しいのかどうか、それが美しいならその態度で良いし、美しくないと思うならその態度は良くないという事になります。また、見た目についても、自分の姿勢や表情も、それらが美しいかどうかで、姿勢や表情をより美しくなるように整える事が出来るような気がするし、それが自分にとって自分らしさにつながるような気がします。美しいかどうかは、自分でも自分の事が分からない領域についての自分の判断基準を与えてくれます。きっと美しいどうかで、自分の振る舞いや考え方、態度、姿勢や表情、あらゆることを決めていくと、自分も心地良くなっていくように思います。そして、自分が思う自分らしさが現れてくるように思います。

 

もう一つ、今生きているかどうかです。今この瞬間、自分は美しく振舞えているかどうか、考えてみると、美しくないと思ったら、美しいと思う方に意識を向けた方が心地良くなるような気がします。美しさを基準にすると、今生きている、今に集中しているというように、生きた心地がするように思います。今自分が考えようとしている事が美しいのかどうかを考えてみて、美しくない考え方になっていたら、美しい考え方に変えた方が心地良いように思います。今この瞬間を生きる時、常に美しくあろうとすると、生きる事に集中できて心地良いように思います。

 

今回は、美しいかどうかに関して、何かを決める時、自分らしさ、今を生きる、について考えてみました。どれも、美しくあろうとすることが、自分にとってより良く、心地良く、生きた心地がするように思います。美しいかどうかは、自分の無意識の領域にある根源的な価値判断を支えているように思います。

 

「善いかどうか」という判断も間違っていないと思いますが、自分の基準から離れて、社会のルールや価値観に基づいて決める感じになるので、「美しいかどうか」という自分の主観的な価値判断に基づく方が、自分らしく心地良くなれると思います。真善美で言う、真で決めたり、善で決めたりするのもある判断の仕方ですが、より正しいかどうか、より善いかどうかは自分から離れていて、美は、自分にとって直接的です。考えるまでもなく、自分らしく自分にとって良いと感じられます。

 

美しいかどうかを判断しているその中身は一体何なのか、これも気になるところですが、それについては別の機会に考えてきたいと思います。