毎日の哲学の断片をつづるブログ

日々哲学することを習慣とし、思考と言葉をつづる

「わたしとは何か」について考える─ 身体からの立ち現れと「気付き」の主体としての意識

わたしたち人間は、日々の生活の中で、当たり前のように「わたし」という存在を感じて生きています。ですが、よく考えてみると、「わたし」とはどのような存在でしょうか。この問いについて、自分の身体と意識の関係からあらためて整理してみたいと思います。

 

まず前提として、わたしたちは肉体(=身体)という物理的な土台を持った存在です。手足があり、心臓が動き、神経が全身を駆け巡っています。

 

しかし、その肉体そのものが「わたし」かというと、そうではないように思います。

 

わたしは意識であると考えると、身体はその活動の基盤であり、そこから生み出された主観的な体験の主体として感じられるものが、わたしという存在の本質にあると考えられます。

 

この意識という存在は、身体の活動から立ち現れてくるものです。神経の活動や揺らぎ、全身の血液の循環など、あらゆる身体の全体的なプロセスが重なり合う中から、浮かび上がってくる現象のような存在。それが意識と言えます。

 

構造として見れば、意識は100%身体という土台に依存しています。身体の循環や生命活動が途絶えてしまえば、意識は存在しません。その意味で、「身体=わたし」ではないものの、身体から生み出された存在としての「わたし(=意識)」という関係性が成り立っています。

 

ここで重要なのは、立ち現れた意識は単に身体側から一方向的に立ち現れた存在にとどまらないという点です。

 

身体から生まれた意識は、再び自分の身体に関わることができます。ここには、身体と意識のあいだを循環する双方向のループが存在します。

 

そして、私という存在は、「気付く」ことのできる主体と言えます。

 

目の前の景色を見ること、感情を抱くこと、そして自分自身の思考にまで一段高い視点から「気付く」こと。このメタ認知の根元にある視点こそが、「わたし」であり「意識」と考えることができます。

 

明確な形を持った固定的な物質としての「わたし」は、物理的にはどこにも存在しないのかもしれません。あるいは、ひょっとすると、脳波のように観測されているものかもしれません。

 

ですが、身体という生命活動の循環の上で、世界や自分自身を「気付く」存在として、確かにそこに立ち現れています。

 

「わたし」とは、身体を土台として、身体に依存しつつも、自分の身体そのものではありません。身体の循環的な活動によって生み出された存在としての「わたし=意識」であると考えられます。

 

そして、身体の生命活動の上で、わたしという意識は気付くことができ、そのメタ認知する主体としての意識という言い方もできる、そのような存在がわたしと言えます。