美は、人間が共通して感じる主観的なものであり、個人によって多様ではあるものの、みな同様に得る事が出来る、人間特有なものです。
ソシュールの言う言語学に基づく記号の概念は、現代の記号論の基礎を形作っているわけですが、その意味での記号の概念は人間のみが獲得したものではなく、他の動物や自然界においても普遍的な事として当てはまるものであり、極めて客観的なものと言えます。
一方、美は、人間の体験に基づくものであり、また、人間の、例えば、視覚を通した感覚的なものや、感情を通して、見出されたり獲得されたりするものであり、つまり、身体的なもので言えるわけです。身体が無ければ、美は無いわけです。身体こそが、その経験や感情を通して、美を生み出すわけです。
また、美は上でも触れましたが、主観的なものです。個人によって美を美と認める事は全くもって個人的であるわけです。そして、個人の身体に基づくわけですから、さらに言うと、主観性というものも、個人の身体に基づくわけです。他の誰かにある美は見出されなくても、自分の身体を通して主観的に自分だけのものとして見出されるわけです。
記号は、もちろん、身体を通して、自然的なものや文化的のものから取り入れたものとしても創り出されますが、言葉も文字もそれに漏れないわけで、それ以外のありとあらゆるものも、記号と身体とが結びついて色んなものを、人間は想像し、創造するわけです。
人間のゲシュタルトの性質は、全体性のようなもの、視覚的には輪郭のようなものを創り出す力であるわけですが、記号の概念もこれに加わって、自分の中にあらゆるイメージや意味を作り出すわけです。文化も言葉も意味も、視覚的なものも社会的文脈も、ありとあらゆるものを取り込みながら、ゲシュタルトの性質により、足りない部分は埋め合わせ、言い方を変えると、具体的なものと抽象的なものを組み合わせながら、また、類似なものから想起して新しいものを想像するわけです。
このような性質によって、人間は、体験と感情を含む身体によって、主観的に、美を生み出すわけです。
そして、その美は、記号の概念に支えられているわけです。記号は人間の文化や文脈みたいなものも組み込みながら新たな価値や概念、抽象的なものも生み出し、そして、身体との相互作用によって、生み出されるわけです。
つまり、美というものは、記号という概念と、身体との相互作用によって生成されるという事です。このようにして生み出された美は、人間に生きる動機と意欲を生み出し、喜びをもたらし、生きる力を与えるわけです。