毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

言葉は不正確がゆえに二面性がある。

ジャーナリングをしていて気づく事は、それは言葉には2つの性質があるという事です。

 

ノートに向かって自分自身と向き合い、自分が今何を感じているのか、どういう気持ちなのか、自分の心や感情を読み取りたいわけですが、その為に言葉を使っているわけです。自由気ままに文字をノートに起こしていく事によって、自分の心の反応を確かめながら、ある時自分の心を知るわけです。また、自分の心とのつながりを感じるわけです。

 

不安があったり、心に余裕が無かったり、混乱したりしていると、自分が何を考え、そして、自分が何を感じているのか、分かりません。だから、言葉で可能な限り、その真実に近づこうとするわけです。

 

一方で、言葉はその性質上、物事を、もしくは、ある真理を、正確に言葉として表す事は出来ませんから、自分の真理にいくら迫って近づこうとしても、ぴったりと一致する事は出来ません。どうしても、ずれが生じるわけです。

 

ですが、それでも、自分にいかに迫れるか、より正確に読み取れるか、その作業が言葉においては重要で、そのようにして、自分自身に近づこうとする事が大切なわけです。

 

その意味での言葉の性質は、もうひとつの活用法があって、自分に向き合って言葉を書き綴りながら、何か自分を言葉で突き動かしていこうとする試みがあるわけです。

 

言葉が事実や真実を正確に言い表せない以上、必ず今の自分と、言葉で自分に対して表現するものとには、ずれが生じているわけです。離れているわけです。ギャップがあるわけです。

 

ですから、そこに投げかける言葉は、自分と距離があって、そして、その言葉によって自分をその言葉にジャンプさせるわけです。

 

そのような仕組みで、自分に対して色んな言葉を投げかけていく事で、自分自身を変えようとする。そういう事です。

 

言葉によって、自分を押し広げ、変化させ、違う自分を作り出し、そして、新たな行動に促すわけです。

 

もちろん、言葉によって自分自身を探求し、深堀りする一方、どうしてもずれる言葉によって、新たに自分を発見するわけですが、同時に、新たな自分が開拓されるわけです。

 

そうする事で、自分が変化し、新たな行動を促し、何かにコミットする活動へとつなげていくわけです。

 

言葉には、どうしても事実や真実、真理と一致する事は出来ないという制約がある事によって、自分自身や心や感情を完全に読み取る事が出来ない一方、自分自身を新たに開拓し、変化させ、違う自分にしてしまう、そういう二面性があるわけです。表と裏があるわけです。