毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

現状維持の日々はいつだって変化のポテンシャル。人間の作る人間社会、進化論から考える。

仕事をしていて、相変わらず、不安な事やストレスに感じる事は多く、忍耐の日々だなあとよく思います。現状維持の毎日は何か疲れるし、こういうのって、どうにか突破できないものか、とよく悩みます。

 

最近、世の中の話題は専らロシアとウクライナの問題なわけですが、ウクライナの人々や中心部が爆撃された映像などをニュースで見ると、「一体なんでこんなことになるんだろう、明らかに関係のない人々はそこにいるのにな。」と思ってしまいます。原因は色々とあると思いますが、そこに住んでいる人々がどうすれば良かったか、どうするべきだったのか、と考えると、どうしようもなかったんだろうなと思ったりします。その意味で、現代の社会では、このような情勢では、もちろん誰かに責任や原因はあるにせよ、仕方がない、しょうがない、と思わざるを得ない気がします。避難せざるを得なくなった人々が何かをどうにかしていれば、何とかなったとは思えないからです。

 

仕事をしていても、程度は違えど、同じような仕組みがあるように感じます。現代は、人間社会が高度化していて、その関係性、つながりが、その中にいる人間にとって影響が強すぎて、一人一人でどうにかできるように感じません。もちろん、その社会や組織の中で影響力のある立場の人がどうにかすればどうにかなる面はありますが、他の人にとって代わったところで、似たような事態になるような気がします。いかようにしても、似たような構造になるように思います。個人個人の手に負えないレベルという感じです。

 

現代の人間社会は、関係し過ぎの、つながり過ぎの社会と言えます。社会全体が歴史の発展とともにそのように進んでいますし、インターネットなどのテクノロジーもそれを強く後押ししています。

 

ダーウィンの進化論から人間社会を考えると、現代の人間に取り巻く環境要因は人間自体であり、また、テクノロジーによる人間同士の関係性やつながりによるものとも言えます。もはや、現代の人間社会では、人間自体が環境因子です。なので、適者生存や自然選択、また、淘汰圧の観点から考えると、ある種の人間の過密さが原因となって、人間自体の環境要因によって淘汰圧を感じながら生きざるを得ない感じがします。

 

ロシアとウクライナの問題は、二国の問題にとどまりません。国際政治的な、国際経済的な問題も関係あるし、情報の影響もあります。そんな中で、国にいる人々、一人一人がどうにかできるように感じません。

 

会社など、人間の社会、人間の組織もその意味で同じです。現代の発達した人間社会が作る環境の中で、人間は互いに環境要因となりながら、押し合いへし合いの状況です。

 

そう考えると、日々の現状維持ってそんなに悪くないように思えてきます。現代の社会は、関係し過ぎのつながり過ぎ、その過密さゆえに、いつだって変化し得ります。そのような社会の中では、何かあればいつだって変化が起きます。それが進化論です。だから、現状維持の毎日っていうのは、これから先も自ら変えていけず、変わらないように感じてしまいますが、大きな変化のポテンシャルがいつだってあると感じます。良いように言えば、忍耐の日々は、いつだって突破の可能性はあります。現代とは、そういう社会です。