毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

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マルクスの思想に基づいた資本と仏教に基づいた欲と欲望機械。

マルクスが資本主義社会の問題に対して訴えた時代は19世紀後半で、現在はその頃から100年以上は軽く経っています。それでも、いまだに資本主義社会に関して議論がされていて、マルクスの考えた思想が一部の人たちに期待されています。

 

斎藤幸平さんの「人新世の「資本論」」を読んでいると、マルクスという人は本当に仏教の考えに到達していったんだなという事を凄く思います。

 

例えば、マルクスの思想に基づいた「資本」についてです。まず、人間と地球や環境などの自然との関係において、人間は「労働」という人間特有の関係を自然と結ぶことによって、自然の一部を使ってそれを形を変えて消費して、その後自然に返す事で、自然の循環は維持されます。昔の幾つかの人間社会のコミュニティは、自然とこの関係を上手く築いていたという話です。

 

ですが、資本は人間が生産性を高めた結果作り出したシステムでありながらも、資本自体が資本を集めて増殖する仕組みを持っているので、これに人間の労働は資本の増大とともに強制されるという仕組みを内蔵していて、それは現代社会を見ればよく分かります。

 

資本の形成は労働の生産性が上がった結果でありながら、いずれにしても、人間が作り出したシステムである事は紛れもない事実で、見方を変えれば、人間の欲望に基づいているとも言えます。20世紀の物質的な豊かさを求めた時代を振り返ればよく分かります。

 

仏教では、基本的に人間の欲を否定しています。「足るを知る」という考えが仏教にはありますが、基本的にはそういう感じで、欲に任せて生きていっても欲に絡めとられて、欲を満たしても物足りなくてさらなる欲を満たそうとしたり、絶え間ない欲に苛まれたりして、苦しみが生まれます。仏教では、今の自分の状態を満足するのが良く、常に今の状態に納得する事を勧めます。自然(じねん)と言って、良い状態にしておけば、ただ自然と良い方向に向かっていくという程度の事は言っていますが、欲は良いとは言っていません。

 

その意味で、仏教によって否定された欲ではありますが、資本主義社会の資本は人間の労働の徹底した生産性により生まれたというより、人間の欲に基づいて生まれたとも言え、マルクスはこれが良くないと言っているわけです。斎藤幸平さんは、「人新世の「資本論」」の中で、脱資本主義をうたっているわけですが、人間の欲について言っている事につながります。

 

20世紀後半に、ドゥルーズとガダリは、「アンチ・オイディプス」の中で人間の事を「欲望機械」と言っていて、これが人類が資本主義社会を選び取った原因であると説明しています。

 

まさにその通りだなと思うわけですが、21世紀に入って、現在の資本主義を中心とした社会は、どのような方向に向かっていくのでしょうか。