毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

時間とは本来世の中や人々の共有の場。時間がないと寂しいが、自分時間は大切。

仕事や生活が日々忙しく、特に頭の中が忙しく、時間のない毎日を送りがちですよね。自分も何故か、気を抜いたら時間に追われています。気が付いたら仕事の事を考えていたり、人間関係の事を考えていたりして、我を忘れています。

 

だから、自分時間を常に作る事を心がけています。自分に向き合う時間を作る事で、忙しく色んな事に囚われている自分に気付いて、落ち着きを取り戻して、今日という日を始められるという気になります。

 

そうやって、自分時間を作る事は大事だという事はいつも凄く感じているわけですが、一方で、やっぱり、時間というものが何か、凄く分かりにくいと感じます。

 

そこで、時間というものについて、見方を変えて考えてみたいと思います。時間とは、本来自分のものではなく、世の中と共有する場、世の中の人々と共有する場としてあるという事について考えてみたいと思います。

 

地球が生まれたての、地球上に何にもない状況に独り居ると想定すると、たぶんそこでは、時間は感じません。ただ地面があるだけで、何も変わらない景色がずっとあります。永遠の時間のようで、言い方を変えれば、カメラのシャッターで撮った一枚の写真の世界です。時が止まっている世界です。

 

ただ、太陽はありますから、東から昇って西に沈むという地球と太陽の関係があって、そこで時間が生まれます。地球と太陽が共有するものとして、時間が生まれたわけです。

 

地球上では、様々な植物や動物が暮らしていて、それらは基本的には太陽に対する自転に基づく1日の時間と、公転に基づく季節の時間を共有して生きています。だから、時間は本来地球上のみんなで共有してきたものであって、自分のものではありません。

 

そして、時計が出来た事によって、世界中の人々が時間をますます共有できるようになって、現代社会があり、現代の時間を人々は生きていると言えます。そのような意味でも、時間は世界のみんなを共有する場としてあります。1秒の時間の長さも、1時間という時間の長さも、1日も1年も、もともとは太陽や暦に基づいていますが、世の中や世の中にいるみんなを共有する場として設計されていて、自分のものではありません。

 

つまり、時間は、地球と太陽の関係を出発点として、生物や人間が設計して創造してきた、創造物です。元々あったわけでありません。

 

現代は、歴史という時間をかけて創られ、共有してきた時間に、ある意味縛られています。1秒の時間も決まっていますし、1日の長さも決まっています。人間は一人一人身体的にも多様で、時間の感覚もその人特有なのですが、時間はみんなで歴史とともに共有してきた場なので、自分の都合で時間を使う事が出来ず、時には忙しく、時には追い込まれてしまうわけです。

 

ですが、時間とは、共有する場という意味で、大事な人と同じ時を過ごす事を可能にするものです。3時に会うと設定すれば、3時にその人と会う事が出来ます。そして、大事な人と、以前に一緒に過ごした過去の時間を共有する事が出来ます。また、大事な人と、未来の時間を共有する事が出来ます。本来時間とは、そのようにして、人々と共有してきたものです。

 

だから、時間に追われ自分時間を作りたいわけですが、一方で、時間のない世界の事を考えると、どこか寂しいわけです。それは、世の中や人々の共有する場だからです。

 

そういうわけで、時間は本来ないと寂しく感じられるもので、世の中を共有する場であると思います。ですが、現代はある意味共有し過ぎて、みんなの時間に振り回されてしまう感じになります。なので、時間はみんなとの共有の場である事を踏まえつつ、それでも、自分時間を作っていく、そういう時代だと思います。