毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

大事な人や世の中の為に何かしてあげたい。自分がどうするかでしかない。

周りにいる大事な人をどうにか幸せにしたい、助けてあげたい。または、世の中や社会の為に何か貢献したい。そういう風に思ったりしませんか。だんだんと歳がいくと、自分自身の事はある程度ハンドルできるんだけど、自分のパートナーとか子供とか、自分以外の家族がもっと良い状態にならないとどうにも前に進めないとか、自分も幸せになれないとか、そういう風に思う事ってありますよね。

 

私はけっこうありました。どうしたらパートナーを幸せにできるだろうかと。友人を元気にできるだろうかと。でも、そう考えていても、どうにも上手くいかないと悩んできました。それで思う事は、結局、自分以外の人たちをどうするかではなく、”自分がどうするかでしかない”、という事でした。それでは、何故自分がどうするかでしかないのか、考えてみたいと思います。

 

まず、自分たち人間という事で、人間の振る舞いを生命という観点から考えてみたいと思います。生命の最もシンプルなものは細胞です。細胞とは、内部を持つ細胞と、細胞を保護し外部と区別している細胞膜、そして、外部の環境である水から成っています。細胞の生命の単位は、細胞のみと思うかもしれませんが、そうではありません。細胞、細胞膜、水の三層構造から構成されているという事です。もちろん水は細胞の内部にもあります。外部の環境の一部を取り込んで、細胞という身体を成り立たせています。細胞膜は単なる防御壁ではなく、外部の水中の物質と細胞の内部の物質を、細胞膜を介して交換しています。細胞は、細胞膜で物理的に隔てられつつも、物質や情報をやり取りしていて、間接的につながっています。そのような意味で、生命とは、生命の身体そのもののみではなく、生命を取り巻く環境と、生命と環境の間で物理的に区別されつつもやり取りをしている境界を持っています。

 

そして、自分たち生命が、外部の環境に対して、どうアクセスするのでしょうか。それは、境界を介して環境にアクセスするという事です。境界を介さずに直接周りの環境にアクセスする事はありません。それが生命の振る舞いであり、人間の振る舞いです。そして、忘れてはならないのは、自分にとって環境とは自分の一部だという事です。

 

自分の周りの人たちは、もちろん自分を取り囲む環境の中に含まれています。ですから、自分以外の人にアクセスしようとする場合は、自分から直接自分以外の人をどうにかしようとするのではなく、自分が自分の一部としての環境にどうアクセスするか、自分自身がどうするか、という事です。自分自身が出来る事は、自分自身の事だけという事なのです。

 

自分たち生命体は、主体性を持っています。主体的にどうするかでしかありません。でも、他人とは、境界線を持ちつつも常に関係していて、自分に影響を常に与えています。そして、自分という生命性を維持してくれています。主体である自分にとっては、自分に影響を与えている人々というのは、自分の単なる外部ではなく自分の一部です。だから、何か自分がアクションを起こそうとするときは、自分が主体的にどうするか、これに集中して振る舞う事になるのです。それは、世の中、社会に対しても同じです。自分を取り囲む社会も自分を形作っています。自分の一部です。そして、主体的に自分がアクションを起こして初めて社会に関われます。

 

だから、周りの大事な人や世の中の為に何かしてあげたい、そう思うときは、主体的に自分が自分の事としてアクションをする、それが最も実効的な事なのです。