40過ぎでも進化する為の実践ブログ

りべしんと言います。40半ばを迎えたサラリーマンが、今からでも進化できると信じて日々考えて実践している事を書いています。

主体性に愛の実践は必要なのだろうか。生命と主体・客体の観点から考える。

主体性があるとは、安心のある状態が、今ここを生きるという状態の持続として、「動的な安心状態」にあって、周りの人や社会も含めて、相手の話を聞いたり、気を遣ったり、配慮したりするという、「愛の実践が備わった状態」と考えたわけですが、この「愛の実践」というのは主体性である為に本当に必要なのだろうか。

 

自分自身が安心な状態で、それが保たれて維持されさえしていれば、それで十分主体性があると言えるのでないだろうか。「愛の実践」は関係なのではないか。今回はこの事について考えてみたいと思います。

 

特に今回は、生命性の観点と、主体と客体という観点から、愛の実践について考えてみたいと思います。

 

まず、生命性に関してですが、主体性があると言ったとき、それは生命性そのものではないかという事です。人間は、生命に含まれるので、主体性とは、人間そのものとも言えます。生命の定義から考えると、生命は、細胞を基本単位として考える事と分かりやすいですが、外部の環境を前提として、その環境の中に生命があり、その生命が外部の環境と関与しながらも生命を環境から維持されるように境界線を持っている、そのような状態にあるものが生命です。

 

また、主体と客体の関係を言う場合、主体とは客体を前提するときに現れるものです。主体と客体の区別が無い場合は、文字通り主体もなければ客体もありません。だから、主体があるときというのは、主体と客体の区別があって、客体を前提とするときという事です。人間や人間社会に関して、主体を自己、客体を他者と捉えて、上の生命の定義を考慮して考えると、他者という外部の環境の中で、自己が環境である他者と関与しながら、自己を維持する為に他者と境界線を持っている、と言えます。

 

人間が、乳児から発達していく過程で、自己と他者の無分離の状態から、自己と他者の区別を認識して自己を獲得していくという、主体的自己の獲得の性質を持っています。生まれた当初は自分も他人も分かりませんから主体性も何もないですが、発達とともに他者と自己を区別できるようになって、主体を獲得していくわけです。

 

そのように考えると、他者という環境を前提として主体は初めて存在できて、そして、主体性は環境である他者と明確に境界線を持って保たれながらも、環境である他者と関与しているという事になります。ここで言う他者との関与とは愛の実践に他なりません。他者との関与ですから、他人と上手くコミュニケーションを取って、良好な関係を維持してやっていけば十分主体性は保たれるという事ですが、さらに考えると、他人に注意を向け、他人に配慮して、愛を持って関わっていくという事が、主体性をより持つ事につながっていくと思います。愛の実践が無ければ、環境である他者との関係性が失われて、生命としての主体性を維持する事が出来なくなります。

 

今回は、主体性があるという時、愛の実践は必要ないのではないかと考えたわけですが、人間が生命である事、そして、環境としての客体を前提として生命としての主体があるという事から考えると、自分たち生命性を維持するためには、他者との関わり、愛の実践は必要であるという事が解りました。

 

主体性は、自分のとって重要なワードですが、「愛」も重要なワードです。今後、主体や愛についても、機会を作って考えていきたいと思っています。