言葉というのは、完璧ではなく、万能ではないわけですが、かなり有用であるわけで、だからこそ、人間は言葉を日常的に使っているわけです。言葉を使っていない国は無いのではないかと思われるほどです。
確かに、言葉は何らかの対象について、正確に厳密に一致するように説明する事は出来ないのですが、様々な表現を駆使する事によって、かなりその本質に近づく事は出来ます。完全に一致する事はできないとしても、かなり一致に近いところまでは近づけるわけです。その意味で、言葉は何かを説明するのに適しているわけです。
また、言葉は何らかの対象について、解読する事も出来ます。その対象について解読を試み、また別の側面から解読を試みる事が出来ます。さらに、深く解読を試みる事も出来ます。言葉には、あらゆる表現方法がありますから、解読も多様にする事が出来るわけです。
そして、言葉は表現ですから、様々な表現、思い切った表現が可能です。その対象について言葉によるあらゆる表現を駆使する事によって、説明できる範囲が広がります。
そして、言葉でなければ、その対象が何なのか、という事が結局分からないわけです。言葉が、人間にとって最も分かりやすいわけです。
では、科学とは何かですが、科学は、その対象をより厳密に、より正確に明らかにするためのものです。科学的であるとは、その対象や現象について、可能な限り厳密であろうとする態度であり、確かに、完全に厳密である事は不可能ですが、それでも、それに対する謙虚さや丁寧さ、厳密さ、正確さであろうと態度が重要であるわけです。
そもそも、科学というものが歴史的に持ち出されたのは、科学が必要だったからであって、科学の無い時代には、あらゆる対象や現象は、不正確で、厳密でなく、不誠実になりがちであったわけです。
言葉は、その意味で、誠実にもなれますが、不誠実にも容易になれて、嘘もつけます。ですが、本来言葉はそのように使うものではなく、より正しく使おうと思えば、使う事は可能であるわけです。
ですが、言葉は性質上、物語を紡ぐことも可能で、空想や幻想や妄想を作り出す事も可能なわけです。
哲学は、本来、言葉に対してはより正確さを要求するものです。言葉と思考をより組み合わせて、哲学を深め、高めてきたわけです。
言い換えれば、言葉で科学するとは、哲学するという事であって、本来、哲学というものは、科学的である事を内包しているわけです。ですから、言葉で科学するという態度は、元々人間は昔から哲学として行っていたのであり、ですが、それをやらない事も多くなったために、科学というものが要請されたわけです。
ですが、本来的には、人間はいつだって、言葉で科学するわけです。