毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「やる気もない」、「人の役に立ちたくもない」自分を認める。

人というのは、いろんな場面で、常にやる気がある事を求められます。仕事は良い例です。また、人の役に立つ事も仕事の前提みたいなところがあって、基本的にそのようなマインドを求められます。ですが、それは実際大変な事です。

 

例えば、仕事だと、やる気があるか、人の役に立つか、その両極端を要求されるような心境に立たされます。

 

「自分にはこの課題を解決したい。そのような思いがあり、やる気があります。」このような「やる気がある」観念であり、これに拠って立てば仕事が進めやすく感じます。周りからも一目置かれ、良い意味で放っとかれ、その事に従事する事で仕事に専念できます。

 

一方、もうひとつの立場があって、それはとにかく「人の役に立ちたい」という観念であり、どこかに問題があればその問題に関わり役に立ち、別の問題が勃発すればまたその問題に駆けつけ解決に寄与する。常に色んな人や箇所に役に立つ事によって立場が確保される。そのような立場です。これと言った明確な個人の目的はないが、会社の役に立つ、人の役に立つ、そのような力の発揮の仕方によって、非常にみんなの役に立つ存在になるわけです。確かにそのような人は会社には必要です。言ってしまえば、政治家のようなものでしょうか。

 

人はこのようにして、「やる気がある」か、「人の役に立つ」かのどちらかの立場に立たないといけなくなって、その表明を迫れるかのような観念に囚われます。ですが、果たしてそれはどうなのでしょうか。それは人間にとって実際大変な事です。

 

実は、大半の人は、そのどちらも放棄していたいと思っていて、「やる気もない」し、「人の役に立ちたくもない」。そのように思っていたりするのではないでしょうか。

 

でも、そんな事を表明したら、一体どうなるんでしょうか。職場でならまだしも、会社や社会でそんな事を表明したら自分の立場は保たれるのでしょうか。表明するのは、なかなかに難しい事です。

 

ですが、内心、それを表明してもいいんじゃないか、そういう風には思います。実際、「やる気もない」、かと言って、「人の役に立ちたくもない」。そのような心持ちってあると思います。それを、自分の中で表明しても良いと思います。

 

それを自分自身で認める事で、ホッと一息つけるってものでしょう。とりあえず、そのような観念に縛られる必要はないんです。やる気が無くても人間だし、人の役に立ちたくないと思っても人間です。

 

それを認めて、ひと息つく事によって、やっと自発的な自分が現れるものです。能動的な自分が現れるものです。そうしてはじめて、何かに少しはやる気がある自分に気付き、意外と少しは人の役に立ちたいと思っている自分に気付きます。やる気を出したり、人の役に立ったりするのは、それからで十分です。そのくらいちょっとで十分です。それくらいからが、むしろ望ましいくらいです。