毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

良い事や幸せは、無駄な事の中にある。目的や意味や過剰な不安を手放す。

自分にとって良い事、楽しい事、好きな事をやっていたいと思うわけですが、どうしても、「それが何かの役に立つか」とか、「意味があるか」とか、そういった事に囚われて、自由にそれらを見つけられない、やれない、というのはあると思います。

 

そう思ってしまうのは、実際、生きていく上でただ遊んで暮らしたり、好きなように生きていたりする事が現実的には難しいという経験があるからだと思います。仕事などは良い例で、仕事はある意味生活する為のお金を得る為にやっているわけで、好きな事をただやっているわけではありません。何か、世の中や他の人たちの役に立つ事をやっていないと生きていけないという現実があるからです。

 

世の中は確かにそのように回っている面があって、直接的であれ、間接的であれ、みんなが仕事をして、ギブアンドテイクで、みんなの暮らしが出来るようになって、自分の暮らしも成り立つみたいなところがあります。特に、お金中心、経済中心の世の中では、そのように考えざるを得ないように感じます。

 

だから、そうやって、役に立つ事、意味のある事に囚われがちになってしまいます。役に立つ事、意味のある事をやっていると、それが世の中に何らか寄与して、自分自身もそれで生活できるようになったり、生きていけるようになったりすると感じられるので、そういう経験から実際の生活や安心など、より多くを得てきたという実感があるんだと思います。

 

逆に言うと、役に立たない事や意味のない事をやっている事が、生きていく事に対する不安になってしまいます。だから、常に生産性、効率性、便利さ、意味に囚われがちです。

 

この「不安感」にずっと囚われていると、いつまで経っても、自分にとって良い事、好きな事、やりたい事が出来ないように思います。自分にとって良い事とは、ウェルビーイングとも言えるし、自分にとっての幸せとも言えるように思います。

 

不安に対して無意識でいるのは、ウェルビーイングや幸せから離れていくように感じます。不安に対して無意識のまま生きていると、不安が過剰になって、いつも生産性、効率性、便利さ、意味に囚われます。でも、それは過剰かもしれません。

 

むしろ、今すでに持っているもので暮らせているのなら、いったんそれらを手放してみるのも良いと思います。そして、むしろ、役に立つ事や意味の逆の事、役に立たない事、意味の無い事、無駄な事をやる事が、自分自身のウェルビーイングにつながり、自分自身を幸せにするという事もあります。

 

目的や意味から離れて、過剰な不安を手放して、無駄な事だと感じるような、でも、好きな事、やりたい事について考えてみるのも良いと思います。案外、自分の中にある無駄な事だと思っているものが、自分を幸せに感じさせてくれるものかもしれません。