毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

物事が解かるという事は、経験的であり時間がかかるもので、飛躍的なもの。

色んな事の理解は、時間がかかるわけです。何らかの物事が解かったと感じるのは、何かを考えればすぐに解かるというものではなく、気が付いたら解かる。そういうものです。

 

経験というのは、何かを理解するという事と関係しています。理屈で考えて解かるという事ももちろんありますが、人間が行うより深い理解というのは、そういった論理的な理解ではなく、経験する事で解かる。そういうものです。

 

だから、例えば、今日という日に、何かを理解したという場合、物事の理解においてかなり進歩したと言えるわけで、という一方、さらにより深く理解するという事においては、また時間が必要なわけです。

 

時間がかかるというのは、例えば、経験が必要という事です。何かを経験しているうちに、時間をかけて次第に解ってくる。そういう理解の進み方です。

 

そのような理解というのは、ある意味、理屈による理解とは異なるわけです。それよりも、経験、もしくは、事実として、理解する。そのような仕組みです。

 

色んな科学は、半経験的に理解されることがよくありますが、このような事です。経験を通して、事実を通して、理解される。そのような事です。ですから、それは、論理的でも理屈でもないわけです。

 

だから、何か物事を理解するときは、単線的ではなく、段階的に理解する。そのようなプロセスを経る事が多いです。つまり、しばらくは、何も理解しない期間を経ますが、ある時に階段的に、もしくは、飛躍的に、物事の理解が進むわけです。

 

とは言え、何も理解が進まない期間は、何もしていないわけではありません。色んな事を考えていたり、見たり、経験したりしているわけです。何か学びの期間だったりするわけです。ですが、理解の程度が向上していない期間なだけです。

 

そして、ある時、何らかの理解のためのパーツがそろったとき、突然飛躍的に理解が進むわけです。

 

ですから、何か物事を理解するという場合は、どうしても時間がかかってしまうわけですから、焦る必要はありません。焦っても仕方がありません。何かを理解するとは、そういうプロセスなのです。

 

そういう意味で、何かが解かったという場合は、それはとても比較的な理解が起こったというわけです。とは言え、さらに何かを考え込んでも、さらに理解が進むというものはないので、とりあえず、明日までゆっくりしても問題ないわけです。

 

物事を理解するというのは、そのように時間がかかる事なので、焦らず、非線形ですが、確実に理解は進みます。