毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分を支えるくれるコア。愛されるより、愛するより、記憶。

人は、自分を支えるコアのようなものを常に求めているように感じます。自分を支えるコア。それがあれば、自立していけるし、自由に自分自身で生きていけるように感じます。

 

周りの人からの評価、つまり、承認欲求に頼ること無しに生きていける自分、そういう強い自分になりたいわけです。

 

誰かに愛されたいという「愛され欲求」も承認欲求のひとつであり、それを支えに生きていくのは危険だ。というわけで、何とか自立した主体性ある自分として生きていきたいわけです。

 

そのように、他人に依存するとか、自分以外に依存するような生き方ではだめで、それより自ら愛する事を大事だ。というわけで、今度は、能動的に人を愛そうと試みるのもその通りだと感じますが、実際そう思って簡単に能動的に愛する事が出来るのだろうか。元々、そんなに他人を愛する事が出来ない人間に、そうと理解して、さあ誰を愛そう、他人を愛そうなどと言っても、出来るものではありません。心を開く事が大事だと思って、すぐに心が開けるようになるものではありません。

 

愛する相手が人間でなくても、ある意味同じです。何か物事に取り組む、没頭する。そういった対象に向き合う事も、愛する事と似ています。そのような愛すべき対象を見つける事が出来れば、他人や自分以外の何かに頼らずに生きていけるような気がします。ですが、そういうのも簡単ではありません。元々誰かを愛する事が出来ない人間に、また、何か対象に向き合う事が出来ない人間に、簡単に愛すべき対象を見つける事は出来ません。

 

いずれにしても、要は、心を支えてくれるコアのようなものが欲しいわけで、それさえあれば安心していけるような気がするわけです。ですが、誰かに愛されようとしようが、誰を愛そうとしようが、何を愛そうとしようが、元々その事が出来ない人には、容易にそういう状態にはなれません。

 

自分の心を支えてくれるもの。それは例えば、「記憶」なのかもしれません。これまでの人との関わりが記憶となって自分を支えてくれるのかもしれません。愛された経験、また、愛した経験が、自分のコアとなる記憶となって自分自身を自立させてくれるのかもしれません。

 

人は、より深いところでは、いつだって、寂しさを感じ、孤独を感じ、不安を感じます。そういった感情を、自分の中の記憶が支えてくれるのかもしれません。完全に自立する、完全に他人に依存しない人間になる、人や何かを愛する人間になる、どれも容易ではありません。そもそも、そんなに人間になるのは無理なように思います。

 

でも、色んな関わりや経験、それに伴って生まれる感情が記憶となり、自分のコアを形成する、記憶がそういうものだとすれば、自分の支えとなるものは記憶と言えるかもしれません。きっとそういう記憶はあります。嫌な記憶もあるかもしれませんが、良い記憶もあります。