毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人生とはまっすぐ進んでいくもののようでそうでもない。

人はまっすぐ進んでいくだけではありません。ある目的地に向かって真っすぐ進んでいくだけではありません。人が進んでいくとき、当然曲がりくねっているし、目的地もあってないようなものです。目的地も当然一つではないし、目的地は新しく生まれたり、無くなったりもします。

 

その上、諸行無常的な世界の中で、つまり、留まる事なく変わり続けるこの世の中にいると、まっすぐ進んでいると思っているその道が、気が付いたら曲がっているという事もあります。そうなると、まっすぐ進んでいくという事に、どれだけ意味があるだろうと思ってしまいます。

 

それでも言える事は、人は動き続けているだろうという事です。まっすぐ進んでいるつもりが真っすぐではなくて、また、進んでいるはずの周りの景色が実は変わり続けている状況でも、少なくとも人は動いてはいるわけです。

 

物理的に、仮に動いていないとしても、自分の周りが動き続けているとしたら、自分はまるで動き続けているように感じると思います。また、自分より周りの方が動いているなら、自分自身が動いている方が楽で、そのままその場所から動かず、留まり続ける事の方が困難という事すらあります。その場所で、自ら力を入れて、踏ん張って動かないようにする事の方が、動き回っているより、労力を使っているかもしれません。その意味で、もはやそれは、動いているのと同等のエネルギーを消費しているのであって、動いているという事と大した違いはないかもしれません。

 

そのように考えると、人は、どのように進んで行ってもいいし、目的地を定めても定めなくてもいいし、じっとしていようとしても良いわけです。そこで偶然に起こった事に一喜一憂するのも人生であるし、自ら積極的に動いて何かを為し、その事で一喜一憂しても同じく人生であるわけです。このように言ってしまうと、人生というものは何でもありです。

 

何らかの目的を持ち、何らかの信念をもって、それに向かって真っすぐ生きていく。そして、気が付いたらその道は曲がっているかもしれないし、当初の目的も変わっているかもしれません。信念も変わっているかもしれません。それでも、人生というのは、それほど問題なく成り立つものだろうと思います。

 

また、特に目的も持たず、信念もあやふやで、意識して進もうとせずにただフラフラと進んで行ったとしても、そこで出くわした何かに心が動き、それによって何かを得たり、自分自身が変わったりするなら、また、それはそれで人生として十分成り立つだろうと思います。

 

人生とはそのようなものであるから、大きく構えて、どうにかなるという心持ちで、自由に生きていけばいいんだと思います。