毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分事というのは、経験を通して育まれていくもの。

自分事として考えるというのは、実際いかに難しい事か。自分の事は自分で考える。言うのは簡単ですが、実際どこまでが自分事で、どこからが自分事ではないのか。非常にその見極めが難しいです。

 

実際、物事の多くは自分事ではないようには思いますが、自分の目の前に入ってくると、途端にそれは自分事のように感じられて、思わず自分事のように対処しようとしてしまいます。

 

でも、真にそれが自分事でなかった場合、その振る舞いは凄く安易なものになり、むしろ自分事として取り扱わなければよかった、という事すらありそうです。

 

自分事というのは、自分の責任の範疇であると考えた場合、その自分事と捉えたものは、自分の責任で本当に対処するのか。出来るのか。とは言え、そのような心の構えも無しに、まるで自分事のようにそれに関わろうとしてしまう事は、人間としては多いように思います。

 

その事を自分事とする。それには、時間が必要なことかもしれません。時間をかけて対処し、吟味し、考える事なのかもしれません。ファーストアクションでそれは判断できないのかもしれません。自分事と思い込んだその対象を、まずはアクションしてみて、やはり自分事ではなかったと判断することもあるかもしれないし、アクションを続けているうちに、次第にそれは自分事になっていくのかもしれません。

 

そもそも、自分事というようなものは、最初から存在するものではないように思います。経験し、学習し、自分のものに徐々にしていく事かもしれません。習慣を習得するように。

 

昨日まで一切自分事でなかったものが、今日になって急に自分事になるという事があるでしょうか。きっと無いように思います。そのように考えると、自分事というのは、きっと時間がかかるものであり、時間を必要とするものなんだろうと思います。

 

そして、それは、学習によって身につけるものであり、習慣化されていくようなものであり、つまり、発達し、育っていくもののようでもあると言えそうです。

 

そのように考えると、あらためて、自分事として考えるというのは、昨日今日でそうなったというようなものでは決してなく、経験を通して徐々にそうなっていくものであって、言い方を変えれば、育っていくもの、育まれていくもの、そのようなものと言ってよいのかもしれません。きっとそれは、自分の一部かのように、意識的に責任を感じようとするものでなく、自然と自分の事としてそこにあるものだと思います。