何故、主体性を持つことが大事なのでしょうか。よく言われている事でありますが、いまいち分かりにくいと思います。そもそも、言うまでもなく人は主体的に決まっているのだし、その上で何故そんなに主体性について言われるのだろうか。そこで、主体性という事について考えてみたいと思います。
まず、人間の発達の観点から考えてみます。人間は産まれてからしばらく、まだ明確な自己は形成されていません。まだどうしてよいか分からず、ただ自分を取り囲んでいる環境に対して反応するしかなく、主に親の安全な環境の中で育ちます。しばらくして、親との関係の中で安全に主体的な自己を発達させていきます。この時はじめて主体性を獲得します。主体性を獲得するとは、親をはじめとする他者と、自分の区別ができるようになる事です。鏡を見て自分と認識できるようになるのも、主体性を獲得しはじめたことを意味しています。ですから、人間は初めから主体性を持っているわけではなく、発達していく過程で主体的な自己を獲得していくのです。
そして、主体的な自己が、2-3歳で獲得したらそれで終わりかというとそうではありません。自分が生きていく中で、五感で獲得した情報や体験、記憶がすべて自己の形成を関わっていきます。つまり、自分を取り囲む環境はすべて、自分自身のための鏡のように映り、それらを吸収していくのです。さらに言えば、人間の活動自体が、主体的な自己を形成していく事そのものと言えます。ある程度自己が形成されると、その主体から見るもの、感じるものは、客体として、自分と区別して認知できますが、それは明確な主体を持っているからです。また、自分により近いものは自分自身の一部にように感じ、遠いものは自分自身とは関係ないものとして気付きません。この境界線は実はそんなに明確ではありません。他人の子供より自分の子供の方が自分に近いので、自分の子供は自分の一部のように感じますが、明確に境界線を引けば自分ではありません。余談ですが、親と子の愛着形成の問題などは、自分と他人が不明瞭になる例と言えます。ここで言いたい事は、人間は発達して成長しながら、常に体験や記憶を取り込んで、主体的な自己を作り続けているという事です。
主体性はどこにあるかと言うと、自分の身体にあります。自分の身体以外に存在するはずはありません。自分の体験した記憶が自己を形成します。自己同一性、アイデンティティとは、自分の過去から現在に至る記憶の歴史です。過去の自分と今の自分とに、時間的な同一性を感じてはじめて確かな自己、アイデンティティを感じることができます。記憶は基本的には海馬などの脳内に収められていますが、身体もこれまでの体験を記憶しています。そのようにして、脳や身体に基づいて、私たち人間は主体性を持っているわけです。
では、主体性を持たない、もしくは、主体性が低い場合の弊害を考えてみましょう。それは、自己と他者の区別がつかなくなるという事です。上で話した、親と子の愛着形成の問題はこれに含まれます。共依存の問題です。自分は自分、他人は他人です。自分は自分、他人も自分というのはおかしな話です。自己責任の観点から、自分は自分の責任を取れますが、他人の責任はとれません。当たり前です。他人は自分ではないからです。
そして、もう一つの弊害は、自己と社会の区別が出来なくなるという事です。自分を、周りの社会に同化させて、自分自身を社会の一部とみなすようなことです。社会や組織にいると、そのような要請は実際にあります。みんな、会社などにいると感じると思います。自分を客観視する事は自分自身のバランスをとるためには有効ですが、社会や組織に自分を同化させて身を預けすぎると、自分を失ってしまいます。自分で自分の事を決められなくなります。日本の戦時中の軍隊のように、集団の中に身を置くと、集団から強烈に洗脳状態に持っていかれる可能性があります。主体性を失い、組織に同化すると、個人より全体、個より種という状態になり、全体主義や蟻の組織のようになってしまいます。
日本社会は、忖度社会です。空気を読むことが重要視されます。その意味で、日本社会では、主体性が低くなりやすくなります。人間の発達や活動は、主体性を作っていく営みです。にもかかわらず、社会の中で主体性を見失うと、人は主体の形成と主体の喪失の間でジレンマに陥り、追い込まれます。主体性は自分の身体から出来ていますから、苦痛や苦悩は自分自身が体験します。そのような意味でも、主体性を保つことはとても重要です。人類の歴史は、個人の主体性の獲得の歴史と言ってもよいのです。
何故主体性が大事なのか。それは、主体性を作ることが人間の営みそのものです。それを失うと生きていく事ができません。言い方を変えると、主体性を意識して育てていくと、生きていきやすくなります。ぜひ主体性を大事にして、人間性を育んでいきましょう。