毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人はレスポンシビリティを求め、求められる。

レスポンシビリティ。通常使われる意味は置いておいて、レスポンシビリティとは、レスポンス・アビリティ。反応の能力の事。人は社会の中で、反応の能力を人に求め、人から求められる。そのように感じます。

 

人は子供の事から、このレスポンシビリティがあるわけではありません。子供は、親や周りの人や環境から様々な影響をもらい、ただそれに反応するだけだと思います。反応しなくても問題ありません。その過程で、少しずつ、レスポンシビリティを身につけていくんだと思います。いわゆる、人や環境に対する反応の能力を。

 

自分に、その意味でのレスポンシビリティが低くても、他人が自分に向かって何かアクションを起こしてくれると、それを喜ぶ傾向があります。自分自身に、人や社会、環境に対する関心があると、そこから何かを語りかけられたとき安心します。つまり、人は人にレスポンシビリティを求めています。環境に関わっている感じがするからです。そして、人や環境からのアクションに対して自ら関与できるようになると、自分の中に人や環境に対してレスポンシビリティが育ちます。

 

人は、他人に接するとき、語りかける時、反応を求めます。返事を求めます。何か語りかけた時、返事がないと一体何を考えているのか分からないから、不安になります。だから、何か反応してほしいわけです。「はい」でも、「いいえ」でも、「分かりました」でも、「分かりません」でも。反応が無いと、生きているのか、生きていないのか、分からないからなのか…。人は、反応があるかないかで、生き物なのかどうか、生命なのかどうかを、本能で判断しているのかもしれません。

 

生命と関わっている時は、その間でのレスポンシビリティが働くから安心ですが、非生命と関わろうしても反応が無いから、つまり、その間でのレスポンシビリティが働かないから安心が得られないのかもしれません。

 

その意味で、人が作るこの社会は、レスポンシビリティによって成り立っていると言えるように思います。人に対して常にレスポンシビリティを求め、人から常にレスポンシビリティを求められる。そのような相互の関係で社会が形成されているように感じます。

 

とは言え、人の中には、レスポンシビリティが高い人がいる一方、レスポンシビリティが元々低い傾向の人もたくさんいるし、レスポンシビリティを身につけた人もいれば、身につけていない人もいます。それが社会の複雑さでもあり、生きづらさの原因でもあり、多様性なのかもしれません。そして、それも社会です。