毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人は何故他人と関わろうとするのか。人間は「感じる」主体という観点から考える。

人は、何故、他人や世の中を関わろうとするのだろうか。人は世の中で生きていて、それは言うまでもない事ではあるのですが、実際世の中には、外向的に積極的に世の中や人々と関わろうとしている人もいれば、また、自分独りで穏やかに楽しく過ごす時間を多く持って生きている人もいます。何故こうも、人によって世の中に対する関わり方が違うのだろうかと不思議に思います。

 

そこで今回は、人間は「感じる」主体であるという観点から、考えてみたいと思います。

 

人間は、気分や感情を持っています。自分は、常に気分や感情の中に居て、気分や感情の影響に振り回されながら、また、それらの影響を受けています。

 

何もせずただ椅子に座っていても、頭の中で考えている事や身体の感覚そのものによって、いつも気分や感情がそこにあって、それらの影響を自分は常に受けています。

 

その意味で、自分はまるで「感じる」主体であるかのようです。気分や感情が自分であるかのようです。自分と気分や感情は、強く結びついていて分かち難く、一体となったもののようでもあります。

 

また、自分とは、この気分や感情の変化の中を生きています。そして、常に「快」の気分や感情を求めています。「快不快」で言えば、人は明らかに「快」が良く、言い換えれば、良いと感じる事が「快」と言えます。だから、人は常に「快」を求める事になります。

 

快の気分や感情は、喜び、安心、心地良い、快適、楽しい、嬉しい、感謝する気持ちなど、基本的にポジティブなものと言えます。

 

それらは、特に何もしなくてももたらされますが、何らかの関わりによってももたらされます。自分独りでも、自分と向き合う事で、また、自分独りで何かをする事によって、その事による関わりから気分や感情はもたらされます。

 

その意味で、それらは、自分以外の他人や、世の中との関わりによってももたらされます。だから人は、多くの人や世の中と関わろうとします。その関わりのよるフィードバックの強度は、自分独りのときより簡単に、また大きく多様に感じられるからです。

 

そういうわけで、人は何故世の中や人と関わろうとするのか、それは人間は感じる主体だからだというお話しでした。

 

その意味では、快の気分や感情を人は求めているわけですが、それらは別に、世の中や自分以外の他人との関わりによってもたらされるという事が本質ではなく、自分独りでも十分にもたらされると言えます。

 

自分自身で自分にちゃんと向き合ったり、自分を大事にしたり、自分自身をちゃんと感じたりすれば、自分自身との関わりが十分なものとなり、自己充足できるという事です。

 

逆に言えば、自己充足が十分できないと、もしくは自己充足を知らないと、世の中や他人と関わるしかなく、それらからしか「快」の気分や感情がもたらされないのかもしれません。