毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

不安がよぎる。それは何が変わる時。飛躍の時。

何かが変わる時、不安を感じたりします。何か原因があるというわけでもないような感じで、不安がふっと湧いてきたりします。嫌な気分、不穏な気分だったりしますが、それが本当に一概に良くないのかというと、案外そうでもないのかもしれません。それは、はじめに言ったように、何かが変わった時なのかもしれないからです。

 

一方で、ずっと似たような日々を送ってきていたかもしれません。なかなか状況の変わらない、一進一退の日々だったかもしれません。似たストレスを感じながら、多少の停滞感を感じながら、それでも、一歩前に出ようと、大きく躍進しようと、あるいは躍進するきっかけを掴もうと、にじり寄るように粘り強く日々を送っていたのかもしれません。

 

ですが、そのような停滞感のある、でも、何とか少しずつ平行移動するように前に進んでいる中、ふと霧が晴れたように、何かがまるで達成されたかのように、自分の中で大きな理解を得、また、何かそれなりの高い高台に到達したかのように、見晴らしの良い地点まで来て、何かが変わる、飛躍できる、そういう時がやってきた、そういうフェーズに達したのかもしれません。

 

そんな時って、一方で、不安がよぎります。あれもこれも備えておかないといけないというような不安がよぎります。一歩大きく飛躍するとき、前に跳躍するとき、その跳躍の先の台地では、色んなものを備えておかなければなりません。その事に備えて、心理的に、色んな不安がよぎります。そのような様々な不安を感じます。

 

そのような不安は、はたして良くないのでしょうか。少なくとも今すぐ手を打たなければいけないような、今のままではまずい事態のような状況ではありません。

 

ふと感じた変化と、その変化の期待と、同時に訪れる不安の予感めいたもの。そのような心理的なあらゆる種類の感情や気分の変化が、ある種新鮮で、でも、不穏な気がして、不安になってしまうわけです。それは、ひょっとしたら、大きく飛躍できる時にだいたいの場合に起こる自然な不安かもしれません。

 

だから、忍び寄る不安をしばらくは絶え、様子を見て、慌てふためく事なく、心を穏やかにさせて時間をゆっくり立つのを待つのが良いように思います。時間をかけるのが良いように思います。急いで何かをする必要もないし、このままではまずいとつらく落ち込む必要もありません。

 

不安とは、人間にとって、いつでもそばにある厄介なものです。いつでも現れます。いつでも訪れます。でも、不安自身は悪いものでも何でもありません。むしろ、何かが変わる時かもしれません。新しいフェーズに変わる時かもしれません。単に、そんな予感が不安という形で忍び寄っているだけです。