毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

不安と自分の守り方。自分を形作ってきたもので十分。存在の証明の必要ない。

人には様々な不安が押し寄せます。でも、それは外側のものであって、自分がどう見られるかを気にしているから。その為に、何かをしないといけないと思っているから。備えないといけないと思っているから。過剰な適応とも言えるかもしれません。何か常に時間が無い、そう感じられるのも、常に外側の自分を備えないといけないと思っているから。常に何かの為の準備期間だから、時間は無いと感じます。それが不安です。

 

言い方を変えると、それは、内側から求めている感じとは違うから。自分の心が能動的に動いて、自ら何かをしたいと思っているなら、それは不安にはなりません。外側からどう見られるかではなく、自分がどうしたいかを考えるという事。心の向きが常にそのようになっているなら、不安は感じません。

 

自分の中の不安の原因に対して、いかに自分を守るか。人は不安を感じるのが普通。不安に基づいて行動するのが人間。人間は不安に基づいて行動するが、その行動を続けていても、ただ自分は不安に基づいて行動する生き物になるだけです。不安に基づいて行動する事はある意味簡単ですが、消耗が速く、いずれ身が持たなくなります。だから、そうならないように、自分を守る事が大事です。

 

その不安の要因が、自分が外側からどう見えるかを気にする事。自分がどう見られるかを気にしている事。外側から見える自分を、常にチェックし、常に足りないと感じて、それに常に備えようとします。結果的に、常に自分は外側から見られる自分として足りないと感じてしまいます。これが不安になります。

 

これは心のくせです。長年のくせで、無意識にやっています。これを止める事が大事です。

 

この「足りない」が不安につながるわけですが、実際は足りないと感じる必要は無いわけです。

 

自分には、これまで生きてきた中で、色んな事を考え、色んな事をして、その結果色んな事を身につけてきました。つまり、自分の中には経験や記憶があります。自分を形成してきた経験や記憶が自分を保持するわけです。「外側から見られても大丈夫」という自分で自分を守る必要はないんです。自分は、自分を形作っているもので良いわけです。十分です。

 

自分は生きてきた事によって、すでにそこに存在しています。存在している自分をわざわざ人に証明する必要はありません。生きてきた中で、ありとあらゆる経験をして、それが自分を形成させていて、それによって自分はそこに存在しています。それで十分です。外側からどう見られるかを取り繕う必要はないんです。