毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

何故人間は苦しみを抱えているのか。赤ちゃんとして世に生まれ出た時点で抱えていた。

人生は何故苦しいのか、つらいのか。仏教は、人間は本来的に生きていく上で苦しみを抱えていて、人生はその苦しみをいかに軽減していくか、そういう事は教えてくれるのですが、そもそも何故人間は苦しみを抱えているのか、という事を教えてはくれません。そのように感じていたのですが、よくよく考えたら、人間は赤ちゃんとして世に産まれ出た時点で、すでに苦しみを抱えていたんだなという事に気付きました。

 

元々、世に産み落とされた時点で苦しみを抱えているわけだから、本来的に苦しいのは当たり前で、最初は親や周りの大人に見守られ、育まれる事で、安全と安心を与えられるとともに、苦しみを自分以外の人に和らげてもらっていたわけで、大きくなるにつれて、自分で対処していくようになっただけの事で、親や周りの大人の元を離れたら、後は自分で苦しみを軽減させていかないといけない、そういう事だったんだなというように思いました。

 

ある意味、単に自分は甘えん坊だったんだなと痛感しました。

 

苦しみはたくさんの要素から成り立っているから、自分でちゃんと出来る事は苦しみを感じないけど、出来ない事は苦しみを感じる、そういう事かなと思います。

 

例えば、私の場合、「面倒くさい」という事をいつも問題にしてしまうわけですが、実際考えると世の中生きていたら誰でも面倒くさい事は普通にたくさんあります。でも、その面倒くさい事を自分で一つ一つ対処していけば、面倒くささから解放されるのに、それを面倒臭がってやらないから、解放されないわけです。小さい頃から面倒くさい事は面倒くさいと言ってそのままにする癖があったように思うわけですが、それをそのままにして放ったらかしてきたからそういう面倒くささが、面倒くささとして残ってしまったんだろうと感じます。

 

また、「朝起きられない」という苦しみもあると思います。私も若い頃は前日の夜によく夜更かしをしていて、朝は起きられないという事はありましたが、今では朝起きられないという問題はありません。自分なりに対処出来てきたので、「朝起きられない」事は苦しみではなくなったんだと思います。

 

ただ、人それぞれ抱える苦しみというのは、先天的なものであれ何であれ、生きていてどうにもならない事もあるのは確かなので、抱えている苦しみという事に関しては、場合によっては「諦める」という事も大事かなと思っています。諦める事で、その事を受容していく事も、生きていく上で大事なプロセスだと感じます。

 

人生何故苦しいのか、という事について、そもそも何故人間は苦しみを抱えているのか、という事については赤ちゃんとして産まれ出た時点からあったんだなと思うと自分としては納得できました。

 

その意味では、何とか克服できた苦しみもあるし、出来ない苦しみもあると思うし、もちろん、大きくなるにつれて新たに生まれた苦しみもたくさんあります。そういった苦しみを一つ一つ丁寧に対処しながら克服して、出来ないならそれについて苦しみが続きますが、その事を認めて諦めて受容していく事も一つの乗り越えなのかなと思います。