毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「関わる」というのは人の自然。自分への過剰なこだわりは関わりの過剰。

関わる事が大切と言っても、無理に何かに関わろうとする必要はありません。基本的に、人は何かに関わっているわけですから。

 

何かについて考えている。そういう事だって、十分その対象と関わっている。それで十分関わっていると言えると思います。

 

何かについて悩んでいる。それも十分です。悩んでいるだけで、十分その事と悩み関わっています。

 

何かに不安を感じている。それも十分関わっていると言えます。自分の中の何かに不安を感じ、そう自分が感じている事を認識している。その事がすでに関わりであって、それ以上関わろうとする必要はありません。

 

関わるという事は人の自然です。無理な行為ではありません。人の生そのものであって、人の自然な営みです。人は自律性を持っていますが、その自律性とは、関わりの事とも言えます。人はとにかく関わり続ける。そういう生き物です。

 

ある意味、関わるというのは、人の全てとも言えるかもしれません。何かに関わり続ける事が大切なのであって、自分にこだわる事は全く必要が無い事かもしれません。諸法無我の観点からするとそうなります。

 

自分にこだわったって、それは自分への過剰な関わりであって、過剰さは自分の関わりを自然なものにしません。かえって関わりが滞ってしまうことにつながります。過剰に自分にこだわっても、それは関わりが過剰になるばかりで、むしろ適切な関わりにならなくなります。

 

過度な不安や苦しみと言ったものは、関わりの過剰によると言えるかもしれません。無理に関わろうとすると、それが苦しみの要因になってしまうという事です。

 

自分への過剰な関わりは自分への過剰なこだわりであって、それはそのまま不安や苦しみにつながります。関わりの滞りを改善して、関わりを自然な流れにしないといけません。それが不安や苦しみの軽減につながります。

 

その意味で、関わりとは、水の流れのようなものかもしれません。川の流れのようなものかもしれません。水の流れには容易には逆らえません。川の水は流れていく方向にただ自然と流れていきます。これと同じです。関わりも、関わりの方向というものが自然とあって、これに逆らうことなく、自然な関わりに身を任せればいいんだと思います。

 

関わりとは、人の自然な営みです。だから、川の流れのように自然に任せて、過剰な関わりにならないようにするのが良いと思います。自分への過剰なこだわりは関わりの過剰です。そうでなくて、自然な関わりに任せたらいいんです。