いつだって人は「感じる」が中心だと思っています。何をしていても、何を考えていても、感じる事が無ければ生きているという感じがしません。
感じるのは自分自身なわけですが、自分の身体もいつだって、「感じる」を通じて何かを伝えてくれます。自分自身は身体と一体であるし、でも、自分は身体と対話できる自分と身体の二者関係でもあります。身体に関わろうとすれば、いつだって身体は応えてくれます。それを自分は感じる事が出来ます。
身体を自分で触れば、そのフィードバックとして、触った感触で応えてくれます。と同時に、自分と身体が一体である事やそれに伴う安心感やリラックス、心地良さを感じます。身体にアプローチすれば、身体はフィードバックを返してくれます。
言葉もある意味似ています。言葉は文化的なもので、ある意味道具です。でも、その言葉は身体がないと使えません。言葉は、身体を通じてその形が現れるものです。だから、言葉を使うというのは、身体を使う事であり、身体と同じような働きがあります。
言葉は口で発する事が出来ます。発した言葉は、自分の耳に入ってきます。言葉は確かに自分から発せられたもので、身体の部分である口にアプローチして言葉が発せられ、発した事によるフィードバックを身体は喉の振動によって身体を通じて返してくれますが、その音声の意味内容も耳を通じて身体を通じて返してくれます。音としての言葉の循環によって、感じる事が出来ます。
言葉はまた文字として書く事も出来ます。自分の手を使ってノートや紙に、また、PCやスマホの画面に、文字を形として表す事が出来ます。手を動かして書いたというフィードバックも身体は返してくれますし、文字として現れた意味内容の言葉、文章も、目から入ってくる形でフィードバックされます。
言葉は、口で音声として発しても、手で文字として書いても、身体にアプローチして身体を通じてフィードバックされます。その時、自分は複雑な感情や気分とともに何かを感じる事が出来ます。
自分は、自分の身体と感情を通じて対話できますが、言葉を使う事も、その事の範疇です。自分の身体で言葉を使って、自分と対話をするという事です。言葉による対話を通じて、感じる事を多様にできるし、深める事も出来ます。自分、身体、言葉の循環です。
そういうわけで、自分を取り戻したい時、自分をリラックスさせたい時、自分を感じたい時、そして、自分が生きていると感じたい時、身体へアプローチして、また、それによって言葉を使って、そして身体からのフィードバックを感じることは凄く良い事だと思います。