毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

派手さや気分に振り回されない。「記述」する生き方。

人は派手なものが好きだと思います。派手なものが好きというか、派手なものに囚われてしまう生き物だと思います。自分もそうです。そして、それは非常に困ります。

 

インターネットやメディアにずっと触れていると、分かりやすい、派手な、凄そうな情報に出くわします。そして、それらに引っ張られてしまいます。気分も振り回されて、自分の人生が物足りないものに感じられたり、このままじゃだめだと感じてしまったりします。

 

人は感情を持つ生き物で、いつも気分が自分に伴っています。自分は感情や気分の中に居て、その影響を常に受けています。だから、気分に振り回されやすくなります。

 

例えば、「絶望」という言葉があります。世の中の色んな情報の派手さ、凄さと対比して、自分の事を惨めに感じたり、物足りたくなったりして、それが過ぎると、絶望につながります。ですが、この絶望というのは、実際の絶望的状況とは別にすると、ほとんどの場合が「絶望感」であり、「絶望的気分」です。

 

「退屈」も似た側面があります。退屈な人生も、退屈な生活も、実際には、「退屈感」であり、「退屈な気分」です。

 

それは、派手な事ばかり、そして、分かりやすい事ばかり見ている事による問題であり、言い方を変えると、自分から遠い事、かけ離れている事、自分にとって非現実な事ばかり見ているという問題です。

 

近くの事を大事にしていない、丁寧によく見ていない、目の前の事、日常、自分にとっての現実を大事にしていない、という事です。

 

そして、大事な事は「記述」するような生き方ではないかと思います。

 

「記述する」とは、ただありのままを書き記す、というような事ですが、そのように生きるという事です。

 

毎日の暮らしの中にあるものをよく見て、丁寧に見て、ありのままに見るという事です。人間は感じる生き物ですから、よく丁寧に見ればそれと同時に、何かを感じます。強度の強いものを優先的に容易に感じてしまいますが、ちょっとした事でも丁寧によく見れば感じる事が出来ます。

 

「記述する」生き方とはそういう事だと思います。

 

そして、記述するとは、ありのままを記述するという事です。目の前の事象、情報を見て、勝手に解釈したり、結論を出したりしないという事です。そのままを記述する態度です。そのままを記述し、つまり、よく見て、よく観察するという事です。安易に結論に飛びつこうとすると、台無しになってしまいます。丁寧さが失われ、大雑把なものの見方しかできなくなります。大事な事や真実は、ありのままの中にあります。

 

そういうわけで、人は派手さや凄さに容易に引っ張られ、それに気分が振り回されます。ですが、それではいつまでも満足できず、絶望感や退屈感に苛まれます。そうではなく、日々の暮らし、毎日を、もっと丁寧に見て、もっと大事にする、記述するように生きるという事が大事だと思います。