毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

思考や創造は生の営み。意識を中心に考える。

最近、相変わらず、意識というものに関心を持っているわけですが、今回は、創造という事について考えてみたいと思います。

 

「創造する」事は、人が常に行っている基本的な行為と言えるだろうと思っているわけですが、「創造する」というと何か凄いものを創らないと創造とは言えないのだろうかと思ったりします。建築物を建てるとか、車を作るとか、何か実体のあるもの。もしくは、音楽や文学のような芸術的なもの。

 

そうすると、何か創造するというのは、すごく大変なものになって、本当にみんなそんなすごいものを創造しているのだろうか、と思ったりします。また、そういう実体のあるものを創らないと創造と言えないとすると、それは、創造するという事は人間にとって自然な活動とは言えないのではないか、とも思ったりします。

 

だから、創造するという事が、人間が営んでいる基本的な行為だとするなら、何もそんな実体のあるものを創るという事ではないだろうと思います。

 

自分自身の実体は意識にあると考えると、脳内で起こっている事、行っている事、振る舞っている事が、意識の生としての営みではないかと思います。

 

意識は脳を中心として身体の中にあって、身体的な、または、生理学的な影響を受けながら生きています。また、生理学的という観点から、常に、情動や気分の影響を受けながら、意識は存在しています。

 

そのような状況の中で、無意識的に、色んな事を想像したり、自動的に予測したりしています。その意味で、ただ単に勝手に湧いてくる想像をいうのはあって、それは無意識的であり、気分の影響も受けます。想像は、意識にとっては、無意識的な活動とも言えます。

 

また、思考する事は、意識にとっては、意識的で能動的な活動と言えます。思考によって生み出されたものを、例えば、想像するものに織り交ぜていくと、それは創造したものになります。その意味で、創造とは、意識にとっては、思考の活動によって創造されたもの、アイデアや概念そのものもそうだし、思考したものが想像するものに混ざって生み出されたものも創造という感じがします。

 

ただ勝手に湧いてくる想像が意識の受動的な営みだとすると、創造は意識の能動的な思考による営みと言え、意識が常に生きている中で行っている行為としては、より生きているという意味でも、創造が基本的な行為と言えそうな気がします。

 

毎日の日常も、朝意識が目覚め、いつもの習慣を意識が行って、意識が思考しながら能動的な創造を営む。そういう風に、意識や創造については、日常や毎日の習慣についても言えるのかもしれません。

 

そういう意味では、「創造する」というのは、意識を中心に考えていくと、人が常に行っている生の営みと言えると思います。