現代の情報化社会にあって、ITだとかDXだとか言っていわれている中、社会全体が、というより、個人個人が、この時代の流れに合わせていくように、乗り遅れまいとするかのように、そして、むしろ積極的に創り出していくかのようにして生きています。
情報は、人間にとって相性がよく、昔からも、人間を「情報子」というように捉えたり、また「情報革命」という言われ方をして、人類史の大きな革命の1つと捉えられたりしてきました。
仏教の観点から、煩悩というのは人間の苦しみの原因であるわけですが、それは、頭の中での思考の断片、想像の断片のようなもので、絶え間なく展開するものです。それに、人間は思い煩いわけです。そういったものは、妄想とも言われたりします。
仏教においては、この煩悩をいかに滅するかが苦しみを和らげる重要な事柄なわけですが、この煩悩というものが、現代の情報というものとあまりにも相性が良いように感じます。
パソコンやスマホによって、メディアの情報をいつでもどこでも入手できるようになって、現代ではもはや、無意識に情報が頭の中に入ってきます。また、無意識に自ら情報を取りに行っています。それは、まるで暇を持て余すのが不安で、その暇で退屈な時間をつぶすかのような行為に見えます。
それもひとつに、人間の脳が発達している事が原因という事は容易に察しが付くわけですが、自分という主体の在りかがまるで脳内にあるかのようなので、常に脳内で何かを考えてしまうわけです。その為には、絶え間ない情報が必要です。情報を脳内でこねくり回す事で自分自身の活動を脳内で感じる事が出来てしまいます。それが、煩悩になり、妄想になるというわけです。
一方、近年、主観的体験だとか感情が大事と言われてきているわけですが、それはある意味当たり前であり、人間はそもそも昔からそのようなあり方として生きてきました。今も昔も大事なわけです。
ですが、情報と煩悩の世界の中では、主観的体験や感情の優先度が下がってしまいます。優先度が下がって、無意識下に追いやられて、身体から成る感覚的な感情的な人間性が失われていくかのごとくです。それより、生産性や効率の方が、つまり情報の処理の方が優先です。そして、情報と煩悩の時間で、暇と退屈をしのぎます。
身体をないがしろにするのは、身体から成る人間としては勿体ない事です。身体は色んな事を感じているし、色んな事を覚えています。もっと身体と関わる時間を持つことが大切だと感じます。身体に基づく喜びや快適さはもっと深くもっと広くあると思います。それらをないがしろにして、情報と妄想の世界を生きるのは人間としてはつらい事だと思います。