毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

意識について考える。意識は世界が身体を通して生み出したもの。

よく、自分が見ている世界について、自分の内的な精神的な世界と外側の物理的・物質的な世界に分けて考える事があると思います。

 

今回は、自分は意識であるという観点から、見方を変えて、内的な世界も外的な世界も区別なく、自分と思っている主体を取り囲む世界が、自分という意識を生み出していると考えてみたいと思います。

 

自分という意識は、基本的には、自分の身体の中にあります。眠っている時はその意識はまどろんでいて覚醒状態としては低いですが、起きている時は意識の覚醒状態は高いと言えます。意識は、身体の状態を反映して、弱くなったり強くなったりしています。その意味で、意識とは、身体から生み出されていると言えます。

 

また、意識は、自分の身体そのものだけから生み出されているのではなくて、自分の身体の外側にある世界の影響も反映しています。目などの感覚を通じて世界を知覚していて、それらの情報を体内に、もしくは、脳内に反映して、それらの経験や記憶が、自分の意識を生じさせています。自分の意識は、世の中に広がる世界が、自分の身体を通じて生み出したものと言えると思います。

 

そういう意味で、世界があって、それから、自分の身体を通じて、自分と認識している意識が自分の身体の中に、主には脳の中に生じたと考えられます。だから、自分という視点から見ると、「自分という意識」は「世界」と対峙していて、デュアリズムの関係あると言えます。

 

「自分」と、自分と向き合う「もう一人の自分」という言い方をしますが、ここでは、「もう一人の自分」がいわゆる「意識としての自分」で、「自分」というのは「世界」という関係になると思います。

 

そう考えると、意識としての自分は、世界があって初めて生み出されるという意味で、自分以外の世界に対して自分は相対的な関係にあると言えます。

 

そのようにして世界を反映して生まれてきた「意識としての自分」が、発達するとともに主体的自己を獲得していくんだろうと思います。そのような発達段階では、すでに、自分という意識は主体的です。

 

主体である自分という意識が生きているためには、意識の置かれている状況が大事です。だから、自分を取り囲んでいる環境が大事です。身体の外の世界も、身体そのものやその状態、気分、記憶も、意識にとっては環境であり、住んでいるところであり、家であり、暮らしです。家や暮らしを整えるというのは、意識にとっては生きていく環境を整えるという事だと思います。逆に言えば、自分という意識は、その意味での自分を取り囲む環境が整っていなければ存在できません。

 

そういうわけで、自分という意識は、世界が自分の身体を通じて生み出したものであり、また、生み出された意識としての自分は、自分を取り囲む環境があってはじめて生きる事ができて、存在する事が出来るんだろうと思います。