毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

分からない事だらけでも、言葉を使って真実に迫る。

なんだかんだ、人は言葉がとても重要なのです。何故かと言うと、真実を知りたいからです。真実を知りたいから、一生懸命言葉を使って、その分からない事を明らかにしようとするのです。

 

と言いながら、多くの事において、真実を知る事は実際には困難です。あらゆる事を明らかにしようと思ってあの手この手を使って追求しても、それを完全に明らかにする事は出来ません。真実というものは、意外と遠いものです。

 

それでも、人は真実を求めています。いつだって真実を求めています。それを明らかにするために言葉を使うのです。言葉を使って、その真相に迫るわけです。真実に辿り着く事が出来ないとしても、真実に近いところまでは辿りける可能性はあります。

 

この世の中、分からないことだらけです。分からないことだらけというか、人間にとって分からない事がいっぱいという事です。人間は万能ではありませんから、色んな事が全然分からないわけです。分からないので、いつも立ち尽くしてしまいますが、それでも分からないままでいる事がとにかく嫌なので、どうしてもそれを明らかにしたいと思うわけです。

 

そういうわけで、言葉を使うわけですが、言葉が真実を明らかにできるかというと、そうとは限りません。言葉では、真実をつかみ取る事が出来ません。

 

それなのに、何故言葉を使うのか。それは、言葉が、それでも、最も何かを明らかに出来る優れた方法だからです。他に良い方法があればそれを使います。でも、やっぱり言葉は優れものというわけです。

 

繰り返しですが、言葉は真実を明らかに出来る方法ではありません。言葉にしてしまっている時点で、多くの事を切り取ってしまっていますから、切り取られて残ったものだけでは、真実は明らかになりません。

 

真実は、実際、人間の力では明らかには出来ません。それは、プラトンの洞窟の話にもあるますし、カントの認識論でもそういわれています。

 

それでもなおかつ、人は言葉が大好きですから、方法として十分ではない言葉を使って、物事を切り刻んで、コンパクトにして、練って、真実にはたどり着けないですが、真実に迫ろうとします。それがまさしく人間です。とても不思議です。

 

とにかく、世の中は分からないことだらけです。不明な事でいっぱいです。そして、それらは決して明らかには出来ません。それでも、たとえそうであったとしても、人間は十分ではない言葉を駆使して切り刻んで、真実に迫ろうとします。真実を明らかには出来ませんが、真実に迫ろうとするわけです。