毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人は多様で分からない。それでも、お互いに明らかになるようにコミュニケーションを取る。

人には色んなタイプの人がいます。自分も含めてみんな多様で違います。なので、お互いに何を考えているか分かりません。それでも、お互いに分かり合おうとする。大事な事だと思います。

 

そもそも、まず何が問題になるかというと、人が何を考えているか、分からないという事です。いくら深く長くコミュニケーションを取っても、完全に分かり合う事は出来ません。

 

それを言うなら、そもそも、自分ですら自分の事をよく分かっていません。自分の事をよく分かっていない自分が、自分以外の誰かとコミュニケーションを取ろうとしたとき、分かり合えるようになれないのは、ある意味当然です。

 

逆の言い方をすれば、あらゆる事が明らかであれば、多くの問題はそもそもありません。自分の事や他人の事が明らかであれば、コミュニケーションにコストはかかりません。

 

ですが、明らかではないからこそ、問題が生じ、そして、人同士でコミュニケーションを取ろうとするわけです。少しでもお互いに明らかにしようとして。

 

カントの哲学を主張したいわけでもないですが、あらゆる事は根本的に明らかにする事は出来ません。認識論的に言えば、どのようにしても、対象を完全に知る事は出来ません。認識には限界があります。絶対に本質は分からないわけです。この事が、多くの問題を生じさせるわけです。

 

ですが、それでも人間が、あらゆるコミュニケーション方法を使って、少しでも明らかになるように努力をするわけです。無理だと分かっていても、少しでも、お互いに明らかにする事にコストをかけるわけです。これは、大事な事だと思います。

 

ですが、繰り返しになっていますが、完全にお互いを明らかにする事が本質的には無理な話です。この事に関する限界を知っている事も大切です。

 

現実はそういう事なので、ある程度のところまで、お互いを明らかにする為にコミュニケーションを取り、そして、それ以上コミュニケーションが出来ないと思ったら諦める。それも間違いではありません。

 

さらに、人は多様です。すべての人と、コミュニケーションが取れる事は実質的に無理です。ですから、自分にとってコミュニケーションが取れる人とだけでも、お互い明らかになるように努力する。それだけで十分です。1人でも2人でも、コミュニケーションのコストをかけてもよいという人がいるなら、それで十分です。

 

人の事は分からない。自分の事すら分からない。それは普通です。その前提で、1人でもお互いに分かり合おうとコミュニケーションを取ろうとする事は大事です。それが、実質的にお互いを明らかにする事が無理だと分かっていたとしても。