ウェルビーイングとは、良い状態の事ですが、それを目標とする事は現代では普通の事になってきています。ですが、自分にとっての良い状態というのは、人それぞれ違うものであって、その意味では、ウェルビーイングの種類というのは人の数の分だけ多様にあるように思われます。
その上、ウェルビーイングを満たす事柄というのは、人それぞれ1つとは限りませんから、仮に人のウェルビーイングを満たす事柄が一人につき10個もあるとしたら、ウェルビーイングの総数は人の数からさらに10倍したものになります。それはすごい数です。
また、客観的に測定できるウェルビーイングであれば、それを達成する為の目標も立てやすいものですが、測定不能のものであった場合は、目標も立てにくくなります。測定可能なものというのは例えば生理的なデータで表示される健康状態を表すようなものの事ですが、そういうのであれば目標としては立てやすいという事です。
測定が難しい定量的ではないものというのは、例えば主観的なものもその1つなわけですが、主観的なだけで他人に細かく説明するのも難しく、そのようなものがウェルビーイングであった場合は、目標を立てにくいという事です。
ですが、主観的ウェルビーイングというものは、ウェルビーイングを考える上でとても重要な概念であって、実際この主観的なウェルビーイングをどのように満たしていくか、そのような事が現代の大きな課題だったりするわけです。
主観的なものは定量しづらく、また、言葉で説明しづらいものだったりもしますので、なおの事、そういったウェルビーイングを目標にするのは難しいわけです。
そのように、つかみどころのない、とはいえ、アリストテレスの時代のような昔から重要視されていたものとしてのウェルビーイングなわけですから、これからも大いに議論されなければなりません。というか、議論されていくんだろうと思います。
ある意味、そのようにつかみどころのない、説明不能なもの、測定不能なものだからこそ、いつまでも人間たちにとって重要なものであり続け、現代に至っているのかもしれません。
いつしかウェルビーイングが、ましてや主観的なウェルビーイングが定量的な説明ができるようになったら、ある種の何らかの達成に到達して、その後人々はウェルビーイングについては解決されたものとして何一つ議論しなくなるのかもしれません。定量的にするものの事を科学と言えるのですが、つまり科学とは何か議論に終止符を打つものなのかもしれません。