毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人間は自立する生き物。内省・主体的自己・自由・独り

人間とは自立する生き物。他の動物と比べると、自立している生き物。言いたい事はそういう事です。別に完全に自立するべきとか、自立していない人間は人間ではないとか、そういう事を言いたいわけではありません。

 

生き物とは、基本的に、反応する生き物と言えます。何か外部から刺激があったらそれに対して反応します。ですが、人間は外部から刺激があっても、それらを全て単純に反応して返さずに、内部に収める事が出来ます。内部に収めて、刺激を受け止めたり、それについて考えたりします。つまり、内省します。この内省が、自立につながります。

 

つまり、自分を持っているという事です。変な表現ですが、自分の内部に自分を持っているという事です。自分の内部に自分が無かったら、外からの刺激をただ反応して返すだけです。もしくは、反応せず、透明人間のように通り抜けるだけかもしれません。その意味で、自分の内部に自分があるという事です。

 

実際には、生まれた最初から自立しているという事はあり得ませんから、自立に向かっていく生き物と言えるかもしれません。大人になっていくとともに、発達していくとともに、自分が自分の中に形成されて、成長して、成熟して、自立する。もしくは、自立に向かっていく。そういう生き物です。主体的自己を形成していくと言っても良いともいます。

 

とは言え、調子が悪くなると、自立する力が弱まったりします。そういう時は、自立度が下がり、周りとの関係性に頼ったりします。ですが、その事自体、悪い事ではありません。人間は完璧ではありませんから。というか、完全に自立した生き物というわけでありませんから。ですが、あまり自立度が下がってしまうと、もしくは、自立度がそもそも低いと、関係性に頼り過ぎて、依存しがちになってしまいます。あまり自分以外に依存する事は望ましい事とは言えません。基本的に、人間が向かうべき方向は、自立していく方向だと思います。

 

ひょっとすると、最終的には独りぼっちになるのかもしれません。すべての事が自分で完結できるようになれば、完全な自立体、完全な孤独になるのかもしれません。仏教では、孤独を悪いとは言いません。むしろ良しとします。孤独と自立は似ています。自由とは、自分によるという意味で、本来仏教では、自由を重んじ、自立を重んじ、そして、孤独を重んじます。したがって、最終的には独りになるのかもしれません。

 

でも、それが人間らしい生き方かもしれません。