毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分の中の想像の場所を言葉を紡ぎながら散歩する。

自分の中で想像しながら言葉を紡いでいくという事で、例えば、今自分が立っているこの地点から見える景色をスタートとして、少し遠くの、少し高いところに見える山まで歩いていく、そんな想像を言葉にしてみようと思います。

 

付近には特に人の気配もなく、家や建物も無くて、ただ草が生えた場所だとします。その周辺には、背の低い丸っこい木々がたくさんあって、視界全体は土の茶色や草の薄い緑や木々の少し濃い緑が混ざったような色合いになっています。上半分の隙間の視界は、空は多少雲がありつつも青く広がっています。このように言葉を紡ぐと、何か夏っぽい季節のように感じられます。

 

夏っぽい季節というのは特に日本だと暑く、湿気も感じられます。周りにうっそうと草木があるんだとすれば、それらから水気の含んだ熱い空気を肌で感じます。

 

そんな中、そこから見えるちょっと高い場所に向かって歩いていくわけですが、そこまでの周囲は低い草木と、ちょっと背の高い草木と、そして、少しの土の斜面が見えます。その土の斜面の上がこの辺りで言えば一番高い場所で、そこまで歩いていくというイメージです。想像の中の景色では、そこまでの距離は割と近く、距離にしても数十メートルといったところです。高さは定量的には分かりにくいですが、感覚的には十メートルも無いんだろうという感じです。その意味で、想像している付近の空間は、そんなに広い空間ではありません。少し歩けばすぐに到達できる、その程度のエリアです。

 

想像上のこの場所は、人の気配が無いとは言え、人はよく通る場所ではあり、明らかに通り道になっていると言えます。草木もそのように並んでいるように見えます。歩いていく場所は両側に草木がありますが、自然に左側に沿って直角に曲がって進んで行って、その先を通って高いところに辿り着ける、そんなように感じられます。高い場所は歩きはじめてしばらくは常に見えますが、そこまでの途中の道は草木に覆われて見えません。なので、草木に覆われた、自然にあるその通り道に沿って入っていって、その後、視界からは閉ざされた草木を通り抜けた先にきっと目指す高い場所はつながっているんだろう、そのような想像をしながら分け入っていく。そんな感じです。

 

実際にそのうっそうとした草木の中に入っていくと、その場所はそれなりに人が通れる空間があって、草は周辺に膝下程度に広がりつつも歩いていくには難はなく、意外とその先に歩いて上っていける斜面が50cm程度の幅を持っているという事が分かります。その付近は木々のおかげで多少暗く、涼しくも感じられます。そして、やはりその斜面の通り道は人がこれまでにも多く通ったであろう道で、通り抜けるのは自然な感じがします。人は少し高いところがあると、そこを目指して歩いていくんだという事を感じさせます。

 

その50cm程度の幅の道を歩いて上がっていきながら、多少右にカーブして進んでいくわけですが、その道の両側は草木は少しで、大部分は黄土色の土の斜面になっており、その間を進んでいく、そんなイメージです。他の道を通る事も出来るんでしょうけど、やっぱりこの道を通っていくのが自然な感じで、違和感なく前に進んでいって目指す高い場所に辿り着けるという事に期待している、そんな感じで少し勾配のある斜面を歩いていく、そんな感じです。

 

そのようにして気が付いたら到達していたその高い場所は、普通にその場所に立つ事が出来る場所で、そこから見える視界は雲で覆われた真っ白な感じだったり、でも、隙間から見える空の青さだったりもします。そして、想像の中では、自分が居たであろう場所の方向には何か景色めいたものがあるかというとそうでもなく、想像以上の景色が広がってもいないただの高い場所であったという感じです。

 

想像上の高い場所に向かって歩いていく、そのような設定で言葉を紡いでいくと、案外到達にしたその先のイメージは何も広がっていない、何も無いというあたりが、やはり想像上の事であったという感じがします。想像で紡いでいく世界は、説明できることはその想像の範囲で可能ではありますが、より緻密でより広がった世界を言葉で説明するには、想像する力が必要なんだろうという事を思わせます。一方で、その先の想像上の視界は無限で自由な広がりを持つとも言えるかもしれません。

 

ちょっとした言葉を紡ぐ散歩でしたが、言葉が足りたようで、でも足りないようにも感じます。もっと言葉を足せば想像はその構造を明確にできるし、ち密さも多様さも説明できる気がします。

 

こんな感じで、もっと色んな想像の場所を言葉を紡ぎながら散歩したい、そんな気がします。