毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

挑戦したい事。それは「希望ある未来のイマージュ」。メディアを乗り越える世代。

こうして毎日ブログを書き続けているのですが、気が付いたら1年半が経っていました。早いのか遅いのか、よく分かりません。でも、とにかく言葉を書き連ねる事は、今となってはとても大事な事で、生活の土台で、とても楽しい作業です。

 

ジュリア・キャメロンの「モーニング・ページ」の中のエクササイズで、「もしもっと時間があったら、〇〇に挑戦したい」の〇〇を考えるというのがあって、その事を考えていたのですが、意外とすぐにそれが出てこないという事がありました。「〇〇したい」という感じだったら、色々と出てきそうなのですが、「挑戦」というワードが意外とそれを考えるのを難しくする感じがありました。

 

挑戦というと、何か挑むという感じだから、今の延長線上で出来る事って感じよりも、達成する事、作り上げるものという感じで、まだそれには到達していなくて、それに向かっていく感じがします。

 

子供の頃に、自分は何が好きだったんだろう、何にドキドキしていたんだろうと色々と考えてみました。私の子供の頃だと、漫画やアニメ、ゲームという感じの世代なわけですが、例えば、ガンダムキン肉マンドラえもん聖闘士星矢ドラゴンボール、あと、ドラクエという感じです。世代が同じなら、だいたいその感じは分かると思います。そういうのは、思い出せば今でもドキドキワクワクする感じはあるし、自分の内面を支えていたようにも思います。

 

ですが、それから少しずつ大人に向かって大きくなっていくと、私は中高と野球をやっていましたが部活はきつかったし、あと受験勉強もあって、そういう意味でどんどんきつくなっていく感じがありました。何とかここまで来られたのも、今思えばその時毎の周りの人たちと何かわちゃわちゃやって、とは言え彼らと一緒に生きてきたからではないかと思ったりします。

 

学校生活も、中高ともに、その雰囲気に息苦しさはありましたし、それより大きな影響として、社会の影響、メディアの影響はあっただろうと思います。当時はまだ若いですから、メディアを通じて社会の全てを、世界の全てを理解できるような状況ではありませんでしたが、それでも、無意識に社会全体の空気を感じ取っていました。そのような中では、未来に希望を持つというような状況ではなかったと思います。そしてそれは、メディアを通じた希望のない未来が自分たちに反映され、投影されたもので、その絶望的な未来を自分のものとしていたんだろうと思います。

 

その意味で振り返ると、当時の子供時代の自分から今に至るまで、自分の意識を超えたレベルで、あらゆるジャンルのメディアの影響を受けてきていて、そしてそれから来る漠然とした希望のない未来、絶望的な未来を無意識に思い描きながら生きていたんだろうと思います。ある意味その未来は自分の物ではなく、社会全体全体、世界全体に覆っていたものだったと思うし、でも、それを自分の中に内在化したものではありました。

 

そんなこんなで、ふと挑戦したい事は何だっけと考えてみるわけですが、常にこうやって1年半も毎日ブログを書いてきて、そして、モーニング・ページも書いていて、思った事を言葉として紡ぎ出して、書き記しているわけで、その事には自分にとって大きな意義があると強く感じています。

 

自分の中の不安な未来とか、希望のない未来、そう映る社会や世界に対して、自分自身、一生懸命そうではない世界、そうではない未来の事を考え、それを言葉にしようとしているようにも感じます。頭の中で浮かんだ思考を言葉の断片として形にして書き残していくような作業。その作業はある意味必死ですが、充実もあります。私にとっては、拙い言葉でも、表現しきれていない言葉でも、それには重要な意味があって、ある意味それしかなく、頭の中で何かを掘り当てようと突き進む思考を追いかけるように言葉にして、書き記していく。きっと何かがあるんじゃないかと思って。

 

今の若い人たちの世代はそれより巨大なメディアの世界を生きているんだろうと想像します。でも、意外と今の若い人たちはそれと上手く距離を取って、遠くで眺めながら生きているのかもしれません。でも、そうでもない人たちもたくさんいるだろうと思います。

 

私の世代はインターネットのメディアの時代から生き始めた世代ではありません。テレビのメディアの世代です。その意味では、インターネットとともに生き始めている若い世代の人たちはどんな世界を生きているのか想像が難しいですが、自分は自分のメディアを投影した世界から見える未来を希望ある未来に描き変えながら、生きていきたいと思います。

 

その意味で、改めて、「〇〇に挑戦したい」という難しいお題に対して考えてみると、「希望ある未来」を思い描きたいという事に関係してくるように感じます。「思い描く」と表現しているのは、どうしても、頭の中の想像する何かという感じがするからです。本当は、何か形のあるものを創るという感じにしたいのですが、その根っこにあるのは頭の中の想像する事という感じがします。

 

そして、それを端的に形にするものは「言葉」なんだと思います。そして、その作業、その希望のある未来を探り当てる、もしくは、築き上げるプロセスは、言葉とともにあるように思います。言葉の断片を紡いでいく作業ですから。

 

また、どうしても、頭の中に想像するもの=イマージュでなければならないという気がする理由は、自分が乗り越えたいものがメディアによって想像された、社会や世界、そして未来だからです。メディアによって想像された希望のない未来に対して、それを乗り越えるには、メディア的なものである必要があって、それはつまり想像物=イマージではないかと感じています。

 

イマージは想像されてはすぐに消え去りそうになります。だから、それは言葉の断片として張り付けておかなければなりません。そして、そのイマージュを端的に形にしたものは言葉の断片の総体となるはずです。

 

そんなわけで、私が挑戦したい〇〇は、「希望ある未来のイマージュを創る」という感じになりました。それでも十分抽象的に分かりにくいですが…。これからもっと考えて進めて、より具体的に「希望ある未来のイマージュ」という概念めいたものをどう形にしていくのか、具現化していくのか、考えていきたいと思います。