毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

言葉を紡ぎながら想像の道を進んでいく。

何も考えずに、思いつくままに言葉を独り歩きさせる。そういう文章の書き方っていうのはどうなんでしょう。言葉を、自分の中で想像する道中で、松明を持ってその先の暗がりを言葉で照らすようにしながら進んでいく、そんな感じな気がします。

 

別にあらかじめどのような言葉をどのように並べていくかを準備していなくても、進んでいくその道を、一語一語照らしては一歩踏み出し、勝手に照らし出された道を進む場合もあれば、幾つかの道の中から言葉とともに一つの道を選んで進んでいくような場合もある、そんなような気もします。

 

言葉を紡いでいく時、紡ぎ終わるゴールをある程度想像して筆を進めていく事もあれば、明確なゴールではないけど、「あの辺り」に向かう事をイメージして筆を進めていく事もあります。その意味では、ただ目の前にだけちょっと広がる想像する視界を松明で照らすだけで進んでいくというのは違うかもしれません。この場合は、言葉を紡いで進んでいきやすいようにも思います。

 

また、1つのゴールだけではなく、幾つかの通過していく場所をイメージしながら、1つ目の場所をまず言葉で辿って行って、そこに到達したら2つ目の場所にまた言葉で辿っていく、そのようにして、幾つかのポイントとなる場所を辿った後に、最後にゴールにたどり着く、そういう言葉の紡ぎ方はより進んでいきやすいかもしれません。

 

その意味では、もう少し、言葉を紡いで進んでいくエリア全体を、その各ポイントで何をしたいのか、何を言いたいのかを、より想像して構築している方が、やはり進んでいきやすいのかもしれません。まずは、あのポイントまで言葉を紡ぎながら進んで、そのポイントに到達したら、そこで表したい言葉をそこにおいて、そして、次のポイントまでまた言葉を紡ぎながら進んでいって、そしてそのポイントでまた表したい言葉を置いていく。そのようにして、幾つかのポイントで、重要なメッセージとなる言葉を置いて回ったら、最後に、ゴールとなるポイントまで言葉とともに進んで行って、最も表現したいゴールにふさわしい言葉を置く。そんな書き方が良いのかもしれません。

 

場合によっては、最後のゴールで最も言いたい事を置いた後に、安心して、全然違う言葉を置いていく、そんなときもあってもいいかもしれません。言葉として言い切った後は気が抜けて、そんな事もある気がします。

 

いずれにしても、言葉はとにかく紡ぎながら進んでいく事が出来る松明のようで、足跡のようで、道を開いていくもののようで、とても便利です。言葉を頼りにしていけば、どこにでもいけるし、どのようにも歩けるし、どのようにも表現出来ます。その意味では自由です。