毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「楽しい」と感じる「食事が美味しい」は、もっと複合的な楽しさが絡んでいる。

自分が楽しいと感じる事として、「食事が美味しい」というのがあるんですが、単に「食事が美味しい」から楽しいと感じるのか、幸せと感じているのだろうか。と思ったりします。もう少し、この「食事が美味しい」という事について深く考えてみると、その事に伴う色んな事が複合的に絡んでいるからではないだろうかと思ったりします。

 

食事に関しては、基本的に妻が食事を作ってくれるのですが、妻が食事を作ってくれるから嬉しいというのはあるように感じます。妻が作ってくれる食事を美味しく感じるというのもあるんでしょうけど、作ってくれるという事自体が嬉しいというのもあるように感じます。外に出かけてレストランで食事をしても、もちろんそれは楽しいですが、やっぱりそれとは違う喜びがあるように思います。

 

そして、食事の時間を妻と一緒に過ごすというのも、とても楽しい事だと感じます。一人で食事をするよりも、やっぱり妻と一緒に食事をするというのが喜びや楽しさの要因だと感じます。むしろ、その日の食事がそんなに美味しくないという場合だとしても、一緒に食事をするという事自体が楽しいから、楽しいのは単に食事が美味しいからという理由だけとは思えません。

 

また、基本的に、食事をしながら海外ドラマを観ているのですが、その事も楽しい事です。食事をしながら、海外ドラマを観て、ドラマの事についてあれこれ話をするというのが楽しい時間というわけです。

 

たまに、映画を観ながら食事をするときもあります。映画は長いですから、食事が映画の途中で終わってしまいますが、そういう時間も凄く楽しいし、楽しみにしている時間です。

 

このようにして、ドラマや映画を観ながらたまに妻と話をするわけですが、そもそも、食事をしながら会話をするという事が楽しいというのもあります。食事をしたいのか、会話をしたいのか、どっちが先なのかは分かりませんが、そのセットがとても楽しいんだと思います。

 

そんな風に考えていくと、楽しい事として「食事が美味しい」というのは、たぶんそれだけではなく、それは妻が作ってくれているからであり、そして、食事の時間が、ドラマや映画を観る時間、会話をする時間にもなっていて、楽しい事がたくさん絡んでいるかだと感じます。面白いドラマや映画を観ているから食事が美味しく感じられるんだろうし、楽しく会話をしているから食事が美味しく感じられるんだろうと思います。

 

食事は味覚と嗅覚でしていると言われますが、たぶんそれだけではないと思います。

 

そういう意味では、楽しい事として「食事が美味しい」と言ってしまうのは、楽しい事を限定した言葉に集約し過ぎていて、というより、楽しい事のかなりの部分を削ぎ落し過ぎていて、正確に表現出来ているように思えません。色んな楽しい事があるのに、言葉はそれを限定しまうので、勿体ない事だと感じます。

 

楽しさというのは、色んな事が複合的に絡み合い、どれかひとつが楽しい事であると限定出来ない、もっと深く広がりのあるものなんだと思います。