毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「人と話をする」と「人の話を聞く」の問題について。

話をするというのは、日々色んなシチュエーションがあって、何かと大変です。誰かに話をして自分の願いを叶えたい時もあれば、誰かの話を聞いて相手の願いをかなえてあげる場合もあります。話をして、そして、話を聞くという会話が双方良い感じになれば良いですが、そうならない事も当然たくさんあって、その事で多くの問題が生じているように感じます。

 

人と話をするという場合、ただ立ち話的に、何気ない話をするという場合もありますが、自分の事柄について何かを決定したい場合に、相手から情報を聞くという場合もあります。自分に何か目的があって、その目的を叶えるために人と話をするという事はよくあります。

 

また、その目的の為に、人にお願いして相手に何かをやってもらう為に話をするという事もあります。それでうまくいけば、相手に何かを頼めますが、上手くいかなければ何も頼めず、むしろ、話が失敗すると、相手との関係性が悪くなります。だから、相手に何かを頼むときは慎重にならざるを得ません。日常的な多くの場面では、このような会話の失敗によって不和が生じているように感じます。

 

別の場面では、自分の抱えている事柄について、ただ分かってもらいたいという場合に、人と話をするというのもあります。人と話をするというより、人に話を聞いてもらうという事です。この会話の場合、具体的に人にお願い事をするわけではありませんから、聞き手はその話を聞いてあげる事に徹しないといけません。この「分かってほしい」という目的を持った会話は、実は本人がそのニーズ気付かずに話している場合が多いですから、聞き手は非常に難しいシチュエーションになります。分かってもらいたいというニーズの場合、「気持ち」が納得するまで話をしようとしてしまいますから、聞き手はどこまで話を聞いてよいか分かりません。話をしている人の気持ちは分かりませんから。このような会話になると、たいてい会話は不快なものになり、関係性は悪くなります。

 

人が話をするという場合は、本人には話をするニーズがあります。それが自分の中で顕在化されている場合もあれば、顕在化されていない場合もあります。上の話の場合は、顕在化されていない場合の問題です。

 

人はいつだって人と話をするし、また、話を聞く側にも回ります。いつもそのような事を通して、会話は上手くいったり上手くいかなかったりします。世の中はそれらの会話や交渉の結果の総体のような状態になっているように感じます。話す人と聞く人の双方のバランスが上手くいく事が良いわけですが、これが困難であるがゆえに、社会や世の中、人間関係は難しくなっていると感じます。