毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「人と話をしたい」という欲。心を鎮める。

人が人と話をするというのは、人間にとって普通の事ですが、この「人と話をしたい」という事が過剰になると、それが問題になります。想像しているより、人は人と話がしたいんだと思います。

 

もう少し言うと、人は人に話を聞いてもらいたい、他の誰かに話を聞いてもらいたいという事です。そういう欲を持っているという事です。誰に聞いてもらいたい、誰かに自分の事を分かってもらいたいという引っ切り無しの欲があるという事です。その欲を、何も考えずに満たそうとすると、それが人間関係上問題になります。

 

一体、何故そんなに人に話を聞いてもらいたいのか、という事ですが、それは、ストレス、イライラ、さみしさ、不安、不満のようなネガティブな心の状態によるという事だと思います。無意識下の事なので、自分では気づいていませんが、それを発散したい、解消したい、満たしたい、という無意識の欲だと思います。

 

この欲は、実際は誰でもよくて、誰かが聞いてくれさえすればいいんだと思います。分かってもらえればいいんだと思います。そうする事で、心がスッとします。心が鎮まります。

 

原因は、イライラ、ストレス、さみしさ、不安、不満、といった心の状態にあって、そのネガティブな心にある原因を、言葉を使って、誰かと話をして、それを通じて、イライラ、ストレスを発散し、さみしさや不安や不満を解消しようとする事で起こる問題です。

 

この場合、言葉は、心の状態を静める事の為にあると言っても過言ではありません。言葉を使って、他の誰かに聞いてもらって、そして、心を鎮めるという事です。心はいつだって落ち着いていたいし、静まっていたいんです。言葉は、人間が開発した、都合の良い、そして、やっかいなツールです。

 

仏教では、この問題に対して、煩悩を滅する、というように言うんだと思います。

 

だから、ポイントは、心を鎮めるという事になるわけです。いかに、自分の心の状態を落ち着かせて、心を鎮めるかという事です。

 

実際は、人に話を聞いてもらう事で、心は静まりません。過剰に話を聞いてもらいたい時は特にそうです。でも、その事には自分は気付きませんから、いつまで経ってもこの問題は解決しません。

 

この問題は、意外と大きいと思います。人と話をして心を鎮めようという事は毎日のようにどこでも起こっているし、むしろそれで社会が回っているかのようです。人間としての自然の営みとすら言えます。

 

でも、この事をちゃんと知っていると、無用に人と話をせずに済みます。話をしたいという引っ切り無しの欲は、タバコを引っ切り無しに吸いたいという欲、甘いお菓子を食べたいという欲であり、ドラッグのようなもの、中毒みたいなものです。解消されるのは一瞬で、しばらくしたらすぐに、その欲は湧いてきます。

 

心は、乱れやすく、すぐに、イライラして、ストレスを感じ、さみしさや、不安や不満に苛まれます。でも、その事に気付いて、過剰に人に話を聞いてもらおうとせず、自分に向き合って、心を落ち着かせようとする事、心を鎮めようとする事は、とても大事な事だと思います。