毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「損得勘定」は結局人にやさしいのではないか。「話を聞いてもらう」について考える。

相手に対する思いやりとか、見返りを求めない、とか、人とやり取りするとき、損得勘定で人と接するのは良くないのではないかという考え方が、人のモラルとして自然の事のようにあるように思うのですが、実はそれは違うのではないだろうか、というお話しです。

 

人に話を聞いてもらうというのは良い例で、例えば自分が今とても辛いからという事で、誰かに話をきいてもらいたいと思う場合、話を聞いてもらいはじめてしばらくの間は、自分は辛さを相手に分かってもらっていると感じて安心出来たり心地良くなったりしますが、一定の時間以上話を聞き続けてもらっていると、聞いてもらっている相手は疲れてきて嫌になって辛くなってくるのではないかと思います。

 

例えば、損得勘定が一切ないと場合を考えると、人が誰かに話を聞いてもらいたいという場合、聞く相手は話を聞く事に損得勘定なしになりますから、聞いてあげる事は当然な事になります。そして、話を聞いてもらっている方はその人に話を聞いてもらう事を当然だと思っていますから、片方は話をただひたすら聞いてエネルギーを消費して、片方は話をただひたすら聞いてもらって心地良くなる事になります。話を聞いてもらって感謝の気持ちを相手に伝えれば、ずっと話を聞いている方は多少気持ちが和らぐかもしれませんが、そのような関係がいつまでも続くと、一方的に話を聞いてもらって感謝して、聞く方も一方的に話を聞いてあげて感謝をしてもらう、というやり取りも、そのうち感謝の意味が失われていくのではないかと思います。

 

また、損得勘定の意識が無いと、話を聞いてもらう事が当然だという事になってしまいますから、話を聞いてもらっても感謝するという気持ちが生まれません。何故生まれないかというと、ギブアンドテイクで考えると、自分が得た相手からのギブを見積もらない上に、ギブをしてくれた相手のコストも見積もらないから、相手がかけてくれた労力やエネルギーの価値が理解できないからです。

 

人が何故人に感謝するかというと、何かをしてくれた時のコスト、労力を理解できているからです。コストをかけるという事の重要性を理解しているからです。だから、そのコストはただではないし、そのコストはその人の時間や労力を費やして為されたものなんだと理解しています。

 

損得勘定で考えるのは良くないと考えて、自分自身が善良でありたいという思いから、相手のつらいという話をずっときいているとしましょう。相手はただひたすらに話を聞いてもらう事を当然だと無意識に思っていて、気分が良くなったら話はそれで終わりなわけです。これをずっと繰り返していると、話を聞き続けている自分はどのような気持ちになるでしょうか。不満がたまってくるのではないかと思います。自分だけが相手の話を一方的に聞くだけで、相手は気分が良くなっているみたいだけど自分はただ疲れるだけ得がない、と感じ始めるのではないでしょうか。実際、得はないんです。得があるのは相手だけ。損得勘定のない世界は、こういう世界だと思います。

 

また、イネイブラーというのがあります。相手がつらいからと言って良かれと思って話をただ聞き続けていると、その相手が全然元気にならず、何かあったら自分に甘えてくるばかりで、そして、あまりに受容するばかりに逆に相手が自分で立ち上がる力を妨げてしまって、つらい状態から抜け出せず、回復しない事を助長してしまうような事です。

 

また、聞いている方も、自分が話を聞いてあげたおかげで相手が元気になってくれたり、自分に対して感謝の意を示してくれたりしないと納得できなくなります。よほどの聖人でなければ、相当に不満がたまります。

 

そういう意味で、結局のところ、損得勘定でモノを考えられる人の方が、人と話をするときのコストを見積もれますから、話を聞いてもらうという事にかかるコスト分をきちんと感謝できますし、自分自身も過剰なコストは良くない事を知っていますから、他人にそこまで甘えないですし、相手に対してもノーと言えます。イネイブラーにはなりません。

 

今回は、結局損得勘定がある方が人にやさしいのではないか、というお話しでした。これは自分自身の経験からもそう思います。話を無条件に聞き過ぎても、相手の為にもなりませんし、自分も不満がたまりもたなくなります。今後また、このような事に関連する事があったらお話しようと思います。