日々、昨日までの仕事の悩みや不安、周りの人間関係、これから先訪れるかもしれない不安や恐れ、そういった事に日々悩み煩わされるわけですが、結局それでも今日はやってきます。振り返ってみると、そうやって昨日という日を通り抜けてきたし、きっと明日という日を迎える事になります。ただ、そこにあるのは、日々思い悩み煩わされているという事。
読んで字のごとく、つまり、これは仏教の言うところの、「煩悩」というわけなのですが、あらためてその事について考えると、この煩悩に振り回されている事そのものが問題なんだと気づかされます。
仏教の四諦という真理に、「集諦(じったい)」というのがあるようですが、それは、人間の苦の原因が煩悩であるという事です。また、人間は苦しみを抱えているというのが、四諦のうちの最初に来る「苦諦(くたい)」というものですが、その「苦」の原因が煩悩であるというわけです。
まさに、日々思い悩んでいる事そのものが苦しみの原因であって、その内容よりも、その煩悩こそが問題であるというわけです。
四諦のもうひとつに、「滅諦(めったい)」という真理がありますが、これは、煩悩を滅して苦を消し去るというものです。つまり、この日々の煩悩をいかに消し去るか、滅し去るかが重要だという事です。非常にシンプルですが、それはそれで簡単な事ではないようにも思います。
ただ、少なくとも、日々の煩悩が苦しみの原因なのだという事に気付くだけでも、今の事態を理解する大きな一歩のように思います。日々の煩悩は問題ですが、それは人間としての普通に起こりうるという事です。煩悩によって、色んな事に対する不安や悩み、焦り、恐れが膨らみますが、それは普通の事です。
逆に言えば、日々の事について思い悩んだところで問題は解決しない、不安や苦しみは解決しないという事も言っているわけで、放っておいた方がマシなくらいです。思い悩み煩う事で煩悩が大きく膨らんでいく事も多いですから、その通りです。
そういう意味では、煩悩に苛まれながらもとにかく身体を動かしたり、日々の習慣を行ったりする事は理に適っていると言えます。いつもの習慣を行っていると、これらの煩悩は小さくなっていき、それほど気にならなくなります。なので、日々の煩悩はあまり相手にせず、いつもの朝の習慣を粛々とやって、そして、今日という日を始める。それはそれで、悪くない1日の始め方、過ごし方なのではないかと思ったりします。