毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

頭が散漫で落ち着かない時。「自分」は頭だけではない。身体全体に広がっている。

昨日までの仕事の事や、日常の事、そして、いろんな悩み事や考え事。良い事や楽しかった事もそう。色んな事が、頭の中で展開して落ち着かない時ってあると思います。そして、頭でどうにかして落ち着かせようとしても、なかなか落ち着いてくれない。こういう事で困る事ってあるんじゃないでしょうか。ちなみに私はたまにこういう事で困っています。

 

こういう時、大事な事は、自分の意識や注意を、そういった頭の中に展開している事に向けずに、ある意味、自分自身に向けてあげる事だと思っています。自分自身に向けるというのは、イメージ的には、自分のコアに向かって自分の内側に向けるという感じで、逆に言うと、外側に意識や注意を向けないという事です。

 

頭の中が散漫だと、それらの事に囚われてしまって、意識が自分自身から離れてしまうような感じになってしまいます。散漫な頭は、まるで自分の外に向かって発散し、広がっているような感じです。ですが、そのような状態では、頭はいっこうに落ち着かず、ずっと何かに囚われ続け、散漫なままです。

 

意識や注意を自分自身に向けるというのは、瞑想などをするとき、よく呼吸に集中すると言いますが、それは、意識を自分の身体に関する具体的な対象に向けるという事です。そうすると、散漫な意識は、ある対象の一点に、ここでは呼吸に、集中しやすくなります。そのようなプロセスを通して、自分自身に意識や注意を向ける事が出来ます。

 

そういう意味では、自分自身とは自分の身体です。頭や脳だけにあるわけではありません。

 

例えば、自分の皮膚も、自分と言えます。腕や足の表面に優しく丁寧にセルフタッチで触れてみると、意識や注意はその皮膚に注がれます。そして、皮膚を感じます。同時に、自分という皮膚は触れられている事を感じます。自分の視点が目の位置にあるから、まるで自分は頭に居て、腕や足の表面の皮膚は自分から見ると対象のように思えますが、そうではありません。自分で触れた皮膚は即座にフィードバックを返して、ほぼ触れて触れられる状況になります。

 

触れられる感覚は、確かな感覚として感じられるので、意識や注意は明確にそれらに向けられます。複雑な感覚ほど、自分自身を体験として複雑に感じます。冷たかったり温かかったり、汗をかいて湿っていたり、心地良かったり。感覚が複雑化するとともに、何か感情のようなもの、気持ちのようなものが明確化しています。そうして、自分に対して、優しさや労わりの気持ちが出てきたりします。

 

もちろん、自分の身体は手足の皮膚だけではありません。胃や腸のあるお腹も自分です。仰向けになって自分のお腹をさすってあげると、自分自身をお腹に感じます。少しお腹を自分の指で押してみると、お腹が張っていたりします。また、それが心地良かったりします。まるで、自分とお腹が対話をするようですが、同時にお腹という自分の存在に気付きます。お腹も自分です。

 

そんな感じで、足の裏や手の指、頭の表皮や、耳、目の周り、ありとあらゆる身体の部位は、自分自身であり、それらに触れて、自分を感じるのが良いと思います。自分自身は身体全体に広がっているわけです。

 

そのようにして自分が身体いっぱいに広がっている事を確認できると、少しずつ散漫だった頭はリラックスしてきます。頭の中の散漫に囚われていた意識が、身体いっぱいに広がります。言い換えると、頭に散漫に閉じ込められていた自分が、自分自身である身体全体に広がります。

 

自分は「頭」だけでなく、身体全体に広がっているという事を思い出せると、リラックスして落ち着けると思います。