毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分の中のデュアリズム。主体的自己を育てる。そして、量子論。

人間は本来、独りではとても不安定な生き物だと思います。子供だろうが、大人だろうが、基本的には、そのままでは自分を保つことは困難です。独りでいるのはつらいし、寂しいから、誰かに頼りたいし、甘えたい。それは人間として普通だと思います。

 

人間が子供としてうまれると、親や大人に安心で安全な基地を与えられて、その中で、育まれていかなければ生きていけないと思います。そしてしばらくして、ある段階から自我が発達して自立して生きていく事になりますが、実際は、人間はいずれにしても不安定な生き物ですから、独りで自分を保つのは難しいので、生きていく為に、何か工夫が必要なわけです。

 

近年、自分の中のもう一人の自分というデュアリズム(=二元論)的な考え方が注目されているように感じます。

 

仏教では、マインドフルネス瞑想など、自分に向き合う事を大切にしていますが、これは、自分の中で、自分を観察するもう一人の自分が重要だという事を言っています。脳の状態におけるサリエンスネットワークの脳モードは、自分を客観的に観察する脳モードで、もう一人の自分の存在を説明しています。

 

また、行動経済学認知心理学では、特に、ダニエル・カーネマンのシステム1とシステム2という考え方があります。システム2はゆっくり考える自分(セルフ)の事を言っていて、もう一人の自分です。自分としての主体はこちらに置いています。

 

人が自立するとは、自分の中に、主体的な自己を育てていくという事だと思いますが、その場合、このデュアリズム的な捉え方が良いように思います。

 

見られる自分と見る自分。認められる自分と認める自分。観察される自分と観察する自分。そのように、自分の中に、自分ともう一人の自分をペア(=対)にする事によって、安定化を図るという事です。人が自己を保つために大事な事は、自分自身が見られ、認められ、観察される対象になることであり、そして、それをもう一人の同じ自分が見る、認める、観察する役割を担うという事です。

 

実際には、観察される自分も、観察する自分も、同じ自分です。分身のようなものです。相互に交換可能です。自分の中に、オブザーバとしての自分を作り出し、自分を観察対象にしていく事が、自分の中のデュアリズムであり、ペア(=対)の形成のようなものではないかと思います。

 

量子論においては、水素分子のような、原子と原子が結合によって分子を形成するという事を考える時、原子核の正電荷と電子の負電荷に基づく静電的な相互作用だけでは、水素分子の形成を説明する事が出来ないというのがあります。原子核の周りの電子は見分けのつかない同質なもので「交換可能である」という交換子としての考えと導入する事ではじめて、水素分子の形成を説明できます。

 

見分けのつかない同質なものは、交換可能であり、どちらを主体、どちらを客体とする確率は同等です。シュレディンガーの猫の話はこういう話です。

 

自分の中に自分ともう一人の同じ自分を想定し、観察され観察する態度は、デュアリズムであり、極めて量子力学的な取り扱いのように思います。量子力学では、観察するオブザーバを設定してはじめて、その確率的、量子論的現象を観察できます。

 

行動経済学におけるベイズ理論の「主観確率」の考え方は、人間の行動をよく説明できていて、確率統計学の世界では非常の重要な概念です。確率的振る舞いとしての人間の行動は、現象としてみると、量子力学的な振る舞いに似ています。

 

近年は一方で、量子論と生命の関係がとても注目されています。私自身も、このトピ覆うにはとても関心があり、注目していきたいと思っていますが、今回は、主体的自己を育てていくという観点で、自分の中のデュアリズムとして量子論についても少し考えを進めてみました。

 

そういうわけで、自分ともう一人の自分を育てていくというデュアリズム的な考え方が、主体的自己を育てていくという事で大事ではないだろうかというお話しでした。