毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「私の在りか」について考える。意識・神経・気分・身体・世界

「私」というのはどこにあるんだろう。こういう疑問をたまに持つのですが、意識や神経、気分や感情とか、身体との関わりや世界とか、そういった事を含めて、考えてみたいと思います。

 

まず、私の在りかは、言うまでもなく、人間の身体のうちの脳に在るんだろうと思います。とは言え、脳以外は私ではないのかという事については、その疑問には否定しません。少なくとも、脳には私は居るだろうなと思います。私とは意識だという考えがありますが、その意識の中心は、やっぱり脳に在るんだろうなと思います。「私は考える。ゆえに私がある」というデカルトが言った言葉がありますが、考える私は私であり、それは脳でやっているんだろうなと思います。

 

脳が私の在りかと言っても、特に、神経系にあるんだろうなと感じます。脳は中枢神経から多くなっているし、そこで私は思考しているんだろうと推察します。ですが、神経系は中枢神経だけではなく、身体全体に広がっている知覚神経や運動神経とつながっています。つながっているという事は私自身は身体全体の影響を強く受けていて、身体全体に広がっている可能性がある事になります。最近ポリヴェーガル理論の本を読んでいますが、迷走神経系の働きを考えると、私自身は明らかに迷走神経系の影響を絶え間なく受けていて、それら無しでは私ではいられないだろうなと感じます。

 

また、気分や感情というものがあります。私という意識は、気分や感情の影響を常に強く受け、まるでその中に居るように感じます。思考を、意識的思考と無意識的思考とに分類すると、無意識的思考は感情による思考と捉える事が出来て、無意識を含む意識である私は、感情の影響を受けながらそれそのものの働き自体が無意識的な思考と言えます。そして、気分や感情は身体の影響を受けます。先ほどの迷走神経系の働きによって気分や感情は常に揺れ動いていて、変化しています。そういう意味でも、私は気分や感情とともにあると言えます。

 

デカルトは、「私は考える。ゆえに私はある」という観点から、心身二元論を言ったわけですが、それは主体と客体という二元論的な考えにつながり、私=主体、身体=客体という二元論になって、その後多くの議論に活用されたと言えます。ハイデガーは、「世界-内-存在」と言って、私の実存に関して、私は、前提として世界の中にすでに放り投げられていて、そのようにして存在している、としました。世界が前提で、その前提としての世界の内に、私があるという事です。メルロ=ポンティの身体の現象学では、私と身体の関係について主体と客体の関係を越えて捉えようとしていて、私と身体は主体と客体の関係である点を指摘しつつも、私は身体の一部であり身体から成り立っている事を習慣も含めて説明しました。そして、身体は世界と私との媒体であり、私は世界の内に属するようにそして世界とともに在ると捉えました。

 

私は意識であり、身体中に張り巡らされた神経系ではありますが、それらの神経系全体は身体と一体化しています。肉としての身体は、私としての神経系と一体化しています。その肉としての身体が、私が存在する以前の世界だとすれば、いかに私は身体の内に存在し、身体に属しつつも身体とともにある存在であるか、という事が分かります。

 

そういうわけで、私とは、脳を中心とする神経系ではありますが、それは身体全体に広がっています。また、思考や気分、感情の働きの中にいる私は、やはり、身体の影響を常に受けています。そして、私は、身体の内に存在し、身体に属しつつも身体とともにあるといった、そんな存在であると言えます。