毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

才能は誰にでも必ずある。発揮する事は最良の喜び。

人には必ず何らかの才能がある。そう思います。ですが、皆がひとしくその才能をちゃんと発揮できているかと言うと、そうとは限らないかもしれません。ですが、才能は必ず皆持っている。そう思います。

 

才能とは、自分が選べるものではないかもしれません。ですが、知らず知らずのうちに発揮される、そういうものかもしれません。自分はその才能を望んでいないが、だけど、その才能を活かしている。そしてその結果が、形として反映されている。そういうものだと思います。

 

また、才能とは、プロ野球選手や将棋の棋士、ピアニストのように、分かりやすい形で発揮されるものとは限りません。名前の無いものとして発揮されるものだったりします。人とのコミュニケーションが上手で、それが自分の才能が発揮された結果の形かもしれません。何故か他の人より上手にできる。だが、その形にはピアニストみたいな名前は無い。そういうものかもしれません。

 

そして、自分にとってそれは望んでいないばかりか、嫌なことかもしれません。嬉しい事ではないかもしれません。つらく苦しいことかもしれません。ストレスを感じることかもしれません。ですが、その自分自身の深い問題意識が、その課題に自然に意識が向いてしまい、どうにも何とかしないといけない使命のような、当然の責務になってしまっているかもしれません。それは、全然楽しい事ではない。ですが、すでに、自発的に、能動的に、勝手にやってしまう。そして、圧倒的に他の人よりパフォーマンスを発揮してしまう。そういうものが、才能と呼べるものかもしれません。

 

例えば、音楽家絶対音感を持っていたりしますが、それは才能と言ってよく、そして、それは嬉しい事ばかりではありません。色んな音は不協和音として耳に入ってくるかもしれないし、ノイズが単なるノイズとしてではなく、調和しない不快な音楽として耳に入ってくるかもしれません。

 

それは苦しみとなり得ますが、それが才能の結果であり、そして、だからこそ、より良い音を求めざるを得ないし、その事こそが音楽家としての才能を持っていると言えるわけです。

 

才能は、その人に苦しみやストレスを与える。ですが、それほどにその事に対する感性を持ち、力を発揮させる。そういうものです。

 

そして、結局、人一倍その事にこだわりが強く、信念を持ち、問題意識が高いために、絶え間ない関心があって、一方自分にとってはその事は当然の、普通の問題として目の前にある。その為、それをやらざるを得ない。そのような事が、才能を発揮した結果として現れているかもしれません。

 

才能とは、誰にでもあるものです。それをすでに発揮している人もいれば、まだ発揮できていない人もいます。ですが、必ず才能は誰にでもあるし、やっぱり、その才能を発揮する事は、人にとって大きな喜びになるはずです。

 

きっと才能を発揮する出会いは、人間にとっての最良の喜びになります。