毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

コミュニケーションは尊い行為。

人間にとって、人とコミュニケーションを取る事は最も大事な事だと思います。同時に、コミュニケーションは物凄く努力すべき事だと感じます。

 

コミュニケーションは、とにかく大変。まずもって、人間は神ではありませんから、人と完全にコミュニケーションを取ることはできません。自分の事も完全に分からないのに、自分以外の誰かと完全にコミュニケーションを取ろうとする事自体無理な話です。完全にコミュニケーションが取れないから、その取れない事がつらさを生みます。しょうがないつらさです。

 

このミスコミュニケーションが、どうしたって生じてしまうので、人間の限界を感じてしまいます。それが、人間は神ではないという意味です。

 

このどうしたって避けられないすれ違いが、人との間でつらさを生み、ストレスを生み、不和を生み、相手を責め、自分を責めます。そして、戦争にもつながるのかもしれません。

 

もし完全にコミュニケーションが取れる神たちの世界があるなら、その世界は完璧につながって意思疎通も完璧で、ストレスもなく、不和もなく、完璧なる調和が実現しているのでしょう。ですが、我々は神ではなく人間ですから、完璧な意思疎通はあり得ず、常に不和に満ち、いつでもどこでもストレスで満ちています。

 

とは言え、完璧なものとして取り扱えないコミュニケーションをツールとして、人は人とコミュニケーションを取ろうとします。取ろうと努力します。言葉を駆使し、言葉以外の方法を駆使し、精いっぱいのコミュニケーションを取ろうとします。その行為は、尊いと言えるのでしょうか。もちろん言えると思います。

 

手に負えないコミュニケーションツールを使って、コミュニケーションを取ろうとする事は、人間にとってとても尊い行為であり、尽くしても尽くし足りないと分かっていても、それでも、努力に値する価値ある行為だと思います。

 

ある時、完璧に近いコミュニケーションが取れる時があります。それは感動的な事と言えます。もしかしたらそれは分かりあっていないかもしれません。でも、そう信じられるときがあります。きっと通じ合えただろうと感じる時があります。それは尊い事です。それまでの精いっぱいの努力が実った瞬間です。それは一瞬かもしれませんが、その尊い一瞬の為に努力をする。素晴らしい事だと思います。

 

ほとんどのコミュニケーションが上手くいきません。ミスコミュニケーションは日常茶飯事です。それでも、諦めず、出来る限りコミュニケーションを取ろうとする事。尊い事です。