毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人はどのように自由を獲得してきたか。不自然という観点から個人の自由について考える。

人類が、自然という不自由な世界から、いかに自由を獲得してきたかについて、神や国家、経済のトピックについて考えてきました。そして、自然に一切の自由はなく、不自然性によって人間は自由を獲得してきたという話もしてきました。

 

そこで、今回は、自然から、神、国家、経済という不自然性によって一定の自由を獲得してきて、そして、さらに、それらから個人としての人間の自由を獲得してきたという事について、自然と不自然の観点でお話ししようと思います。

 

神は、自然の中から、不自然性な神という形で創造されて、これを支えに人間たちは生きてきたわけですが、神が前提となる世界では、神が世界を支配して、神が創った世界は完璧な世界なわけで、すでに神の世界は人間にとって自然そのものとなります。神の世界は完璧ですから、その世界には自由はありません。神が絶対者であるならば、人間は神に対置する関係にはありませんから、神から否定される存在になります。その世界に人間がいかように変化をもたらそうとしても変化は起こりません。自然の世界は、完璧な世界で、変化のない世界です。永遠の世界です。

 

人間の自由は、この完璧な世界から抜け出る事であり、神の法則の世界から逃れる事です。完成されたものに変化をもたらす事は自由によるものであり、そうなると、神による完璧だった変化のない世界は、変化に富む自由の世界である一方、神の支えにより生きていけない世界でもあります。そのような形で、人間は神に支えられた自由から抜け出て、自分自身で不自然性をもたらして、変化をもたらしながら、孤独に生きていく道を選んだわけです。ですが、現代は、自分たち自身の力で生きていく事が出来ます。

 

国家も、歴史的な発展段階では、一定の自由を民に与えていましたが、個人の自由が出現してきた事によって、その主権が国家から国民に移譲されることになり、国家自身についても国民ひとりひとりが責任を持って運営し、実質的には民主制という形態をとりながら国民一人一人が運営に参加するようになりました。国家の絶対者に任せていた時代はそれが自然な事でしたが、近代以降は人間の不自然な行為によってその世界が崩壊して、不自然ではありますが、国民の自由の活動によって維持される国家となりました。そこでは、国民一人一人の自由に基づいた活動がエンジンであり、基盤です。

 

経済に関しても、資本主義社会システムでは、常に経済に変化をもたらし、新創造が必要です。人間ひとりひとりの不自然な行為により発展する世界です。資本主義社会システムの基本は、一定の状態にとどまる事ではなく、変化し続ける事が持続する事です。それを支えるには、1人1人が現状に維持にとどまることなく、常に自由な活動によって新しいアイデアを創造し、それを実行し、実際に創造する事です。不自然な行為を持続する事です。ですが、個人一人一人の不自然な自由の活動の持続が、この世界を支えます。

 

今回は、自然な世界から不自然な世界へという視点で、自然を前提とする神の世界から不自然でありながら変化をもたらす人間の自由の話、国家に保護される事が前提で自然であった世界から国民一人一人が自由に運営するという話、人間一人一人の不自然な自由の活動によって新創造を持続する事で支える資本主義社会システムの話でした。

 

どれも、以前の世界から見れば、不自然な世界ですが、それらは人間一人一人の自由な活動によって為されたものです。自然の世界とは変化のない世界であり、不自然な世界では人間の不自然性の持続が人間一人一人の自由を維持しますが、その世界は孤独でありハードです。不自然だった世界も、時間とともに自然な世界になりえます。その世界に完全に馴染み切ってしまい、一体化してしまうと、その世界の中に閉じ込められ動けなくなります。そのように意味でも、現代は、常に人間一人一人の自由の活動に支えられています。