毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

無いものを求めるよりあるものを大事に。身体の現象学から考える。

自分もですが、人は自分の持っていないもの、無いものを求めてしまうという事がありますが、それよりも、今持っているもの、すでにあるものを大事にする事の方が大事。こんな風に思う自分がいるわけですが、一体この感じってなんだろうって思います。

 

最近、身体の現象学について考えているから、そういう風に思うんだとは思いますが、「身体」について考えると、やっぱりそうだよな、って思います。

 

身体はいつもそこにあるのに、頭の中はいつもどこか別のものを求めようとしています。でも、求めようとする頭は、身体で出来ていて、身体に基づいているわけです。

 

何か自己充足出来ていない自分、満足しない自分がいるわけで、それは身体を大事にしていない事によるんじゃないか、と感じるわけです。

 

自分の身体は自分の一部なんだから、自分が自分の身体を大事にしないという事なんて、起こり得ないのではないか、という疑問もあるとは思います。ですが、私は起こり得ると感じます。

 

「身体は自分なのか。」というと、「100%自分だ。」とは言えない扱いをきっとしています。自分の身体の存在を忘れている事もあるし、身体を道具として扱おうとする事もあります。

 

デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」と言って、自分=精神や心と、身体=物体を分離して考えました。そういう心身二元論的な考え方はおかしいに決まっているというのは、はたからみるとそう言えるかもしれませんが、たいがい皆そのように扱っていて、身体は自分とは違うものとして扱う事は、普通に人間として、むしろ当然だと思います。

 

だから、身体を意識的に大事にするという事が大事だと思うわけです。身体は、自分の意識が他の事に向けられている時、必ずないがしろにしてしまいます。その事からは、人間の性質から言って逃れられません。だから、日々の習慣として、自分の身体をケアする時間を持ったり、自分の身体の状態に気付くようにしたりする事が大切だと思います。

 

そのような感じで、有るものとしての身体、在るものとして身体の例から、「あるもの」を大事にする方が、「無いもの」を求めるよりも大事なんじゃないかなと思います。すでにあるもの、自分の身の周りにあるもの、目の前にあるものが、今の自分を作り上げていて、基づいているものだと思います。

 

身体以外の自分にとってのあるものは、身体物理的につながっていない分、身体よりもないがしろにしやすいかもしれません。そして、道具やものとしてでしか扱わなくなりやすいかもしれません。でも、そういうものもちゃんと見直して、大事にして、愛でる事が、自己充足できる自分、満足する自分を作り上げていくように思います。