毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

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人はどのように自由を獲得してきたかについて考える。市民や国民としての国家

これまで、人間が歴史的に、どのように自由を獲得してきたかについて、考えてきました。そこで今回は、人間が自由を獲得していく発展段階において、国家というものがどのように自由に関わっているかについて考えてみようと思います。

 

人間の自由を考える時、まず、自然の中では自由は一切ないというところから話を始めました。自然とは自然の法則によって成り立っていて、その法則にしたがって存在していて、全くの不自由の世界であると考えました。そして、その不自由な世界から、植物や動物などのあらゆる生物が進化を経て、種それぞれの自由を獲得してきたと考えてきました。

 

そして、人間がこの自然の中でどのようにして生きていけばいいのか分からない、そのような未知で恐怖の世界の中で、神という存在を創造し、神を、人間には分かりえないものを知っている存在、力のある存在として据え置く事で、それにすがって不安を取り除き、心のよりどころとする方法を獲得しました。神の形態は、キリスト教や仏教も含め、世界にはありとあらゆるものがありますが、神という絶対的存在を人間と対置して設定する事で、不自由の世界の中で、一定の自由を獲得しました。

 

そして、国家というわけですが、話としては、市民という話と、社会契約論という話が出来るかなと思っています。

 

まず、市民ですが、それは古代ギリシャ都市国家ポリスにおける自由市民です。不自由な世界からの未開の社会から、人々が集まって共同体を形成し、その社会を構成している人間を自由な市民とする考えです。もちろんその中では、政治や軍事や経済や行政などの一定の社会システムがあって社会として機能しているわけですが、世の中のすべての人間が自由な市民かというとそういうわけではなく、一部の者たちに認められたものです。ですから、その共同体に属する人々は自由市民ですが、そうでない人々は市民ではなく、関わりとしては奴隷のようなものになります。アリストテレスが言う当時の家族観は、夫と妻、夫と子、主人と奴隷という構成が普通であり、主人とは自由市民ですが、奴隷は自由市民でありません。それでも、未開な社会の発展段階として、現代につながる自由の基礎となる社会を形成したと言え、一部の人間だけですが、自由を獲得する実践が示された例と言えます。

 

そして、社会契約論です。社会契約論では、主に、国民、臣民に対する国家というものを概念的に示したものです。17世紀にホッブズという人が提案した社会契約論では、人間に対する考え方がその少し前の時代のマキャベリが考えた人間性を前提していて、自分勝手で狡猾で常に自分の利益を優先するそのような性質を想定しています。そして、その人間たちから成る自然状態では、野蛮な社会で闘争状態になると考えています。そのため、人間はその自然状態の中では生きていけませんから、臣民たちが自分たちの権限を国家に委ねる事によって、国家は臣民に対して絶対的な権威を持ち、臣民の為の国家を支配し、統治するというものです。国家の絶対者は、ここでは国民を代表した人格を持つものとして想定していて、いかに国家を上手く統治するかが重要になります。この考え方は、現在の国民国家としての考え方につながっており、その国家の中で人々は国民として一定の自由を確保されています。でなければ、人間はまた、不自由な自然の中で、また、何でもありの自然状態に放り出されて、生きる自由を失ってしまいます。

 

今回は、不自由な世界の中での国家による自由についてお話ししました。国家については、法治国家としての国家や、実践としての政治体の話も重要ではあるのですが、人間の自由のエッセンスとして、市民としての自由と、社会契約論に基づく国家による自由にしぼって、現代につながる発展段階という意味でお話をしました。